ユース監督やヘッドコーチを歴任した大木武氏を新監督に据えた2003年。シーズン前に戸田和幸のトットナム(イングランド)への移籍などがあったとはいえ、降格を意識するところまで追い詰められる展開は、誰にも予想ができなかった。
しかし、ある面ではチームの課題が浮き彫りとなり、自分たちに欠けているものがはっきり分かった年でもある。足りなかったのはコンビーネーション。シュート数こそ2年連続ワーストを記録したものの、安貞桓、トゥットら前線の決定率はリーグ4位。三都主アレサンドロもMFながら7得点を挙げており、攻撃力がないわけではなかった。メンバーが固定されなかったことも響いて、前線への形が作れず、自慢のサイドアタックが効果を上げられないまま、不完全燃焼に終わってしまった。
クラブ史上最悪の年間11位、さらに初出場を果たしたAFCチャンピオンズリーグでも準々決勝リーグ敗退。厳しい結果に泣いた一方で、チームは天皇杯でベスト4に勝ち上がる意地も見せたが、大木監督から行徳浩二監督、そして2004年のアントニーニョ監督へと指揮官を交代させ、「感動を呼び起こすチーム」としての復活を誓った。