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故 久米一正 ㈱エスパルス取締役副社長兼ゼネラルマネージャー 葬儀のご報告

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11月23日に逝去された、故 久米一正 株式会社エスパルス取締役副社長兼ゼネラルマネージャーの葬儀が、12月3日、4日 東京に於いて営まれました。
通夜、告別式に約1,500名の方々が弔問の訪れ、エスパルスのみならずサッカー界における功績の大きさを改めて感じました。
故人の「明るく送り出してほしい」とのご意思により、出棺の際は盛大な拍手で見送られました。
久米取締役副社長兼GMのご冥福を心よりお祈りいたします

また、葬儀にご参列いただきましたパートナーの皆様、ファン・サポーターの皆様、サッカー関係者の皆様、誠にありがとうございました。


【弔 辞】

川淵 三郎 (公財)日本サッカー協会相談役

 久米さん。さん付けなんかしないで下さいよって声が聞こえてきそうだけど、今日だけは尊敬と感謝の気持ちを込めて久米さんと呼ばせて。10月17日に元豊田スタジアム社長の小幡さんの叙勲パーティーで、奥様と一緒に久し振りに会ったよね。2年前の手術の後、少し調子が悪いとは話していたけど相変わらず笑顔と元気な声だったから訃報を聞いた時は、えっ、まさか?と信じられなかった。宏典さんは電話で話しながら号泣していたので、僕ももらい泣きしてしまったけど、本当にお父さんの事を尊敬していて大好きだった熱い思いが伝わってきて、久米さんもいい息子さんが居て良かったなあってその時は思った。
 久米さんの名前を初めて知ったのは、新人選手として登場した大学時代。中央大学に小柄だけどスタミナ抜群で無茶苦茶強い新人が出てきたって聞いて試合を見に行った。評判以上の選手だったなあ。4年生ではキャプテンで当時の一流企業からは引く手数多。残念ながら我が古河電工は相手にして貰えなかった。日本サッカーリーグで大活躍の後、社業に専念していたけど、サッカー部の成績が振るわなかったことから日立サッカー部の運営に携わることになった。そして、その延長線上で1991年6月、発足間近のJリーグ事務局次長として出向して来てくれた。そこから3年間Jリーグ設立時の難しい前例のない仕事に取り組んでくれて本当に助かった。なんと言っても大変だったのは、僕と森専務と木之本常務の3人が夫々個性があり過ぎで短気でせっかちときている。3人の調整にどれだけ骨を折ったか本当に苦労をかけたよなあ。でも愚痴は聞いた事がなかった。事務局での信頼度と人気度は絶対で、お陰でピリピリしていた職場はいつも明るく活気があった。余りハンサムでもないのに何故か女性に人気があったなあ。
 形に残る仕事として印象深いのはリーグの優勝シャーレをイギリスから調達してきたことだね。僕はありきたりのものではなく世界レベルの優勝杯と考えた時にウインブルドンの優勝シャーレが頭にあった。あれと同じ様なものを用意したい。メーカーを探し出してあのタイプのシャーレを製作させて来て欲しいと久米さんに頼んだんだよね。だからあのシャーレを見る度毎に久米さんを思い出していたんだ。
 柏レイソルがJ1に昇格して久米さんは本体に帰ることになった。その時久米さんは運営部長としてなくてはならない存在だったので、Jリーグに残ってくれるよう強く慰留したけど決意は固かった。その時からクラブ運営に携わることが自分の使命と考えていたんだね。 柏レイソルに始まって清水、名古屋、清水と何回もヘッドハンティングされたGSは久米さんただ一人だものね。特にグランパスで社長に任命された事は、経営にシビアなトヨタさんからのお墨付きを貰えたということだからね。その時はついにやったなあと心から嬉しく思ったよ。僕は予々ヘッドハンティングされるGSが出て来て初めてJリーグが世界レベルになると信じていたから。
 2016年6月に癌の手術をした後、経過は順調と聞いていたけど、必ずしもそうじゃあなかったんだ。泣き言を言わない久米さんだから、周りは余り体調の悪さに気付きにくかったのは仕方ないね。レスターの岡崎選手が日経新聞のコラムで、エスパルスと契約を交わす際、「これからは自分を静岡の父親と思ってくれ」と温かい包み込むような笑顔で接してくれたと書いていた。久米さんを語ればその最たるものは、この温かい人間関係にあると言ってもいいのかな。Jリーグの歴史に輝く名GSとして、その名を残したね。
 最後になりましたが、奥様はじめご家族の心境を思うととても耐え難いものがあるとお察し申し上げます。久米さんのこれ迄のサッカー界に於ける功績を胸に抱き乍ら、一日も早く心の安らぎが得られますことを心から願っています。
 久米さん、またそちらで会おうね! それまでちょっと待ってて。今度会った時は、さん付けしないから。
 安らかにお休みください。合掌


西野 朗氏

 初めて会った時から、お前ほど元気でエネルギッシュで、タフな男はいないなと思っていました。お前だけは不死身なんじゃないか、そう思っていました。11日前になりますか、呼び出されて、愛さんと小島と3人でお前を蘇らせたくて、一生懸命マッサージをしました。時折、笑って「そんなんで良いよ」というような顔をしていてくれたけど、ほとんど厳しい顔をしていました。あの時のマッサージ代、今日、帰りに愛さんからもらって行きます。お前は踏み倒して、「また会おう」と言った。「今度払うから」というような顔をしていたにも関わらず、払ってもらえないので、愛さんにお願いします。
 高校時代、最初に対戦した時、こんなに走り回る選手がいるのかと思うぐらい、静岡の選手は、上手くて、テクニシャンで、スマートで、華麗で、そんなイメージを浦和から持っていました。ところが、こんな選手もいるんだと。その上、お前は俺にまつわり付いて、自由を奪って、苦しめました。何も、プレーできませんでした。大学に入ってからも磨きを掛けて、一層、ポジションが同じ柄、常にお前と対峙して本当にやりにくかった。
 日立に入社してホッとしました。一緒のチームになれたので。お前は再三、「俺はお前の3倍走って、チャンスを作って、チームのために貢献しているのに美味しいところを持って行くのはお前だな、いつも良いとこ取りだな」という話をして。確かにそう。お前は本当にチームのために水を汲み、一生懸命走って、人の2倍も3倍も動いて、そして俺のためにチャンス作って。そう、俺はクレバーで人を使うのが上手いから。お前は本当にたくさんの力を与えてくれました。
 引退後はそれぞれ違う道を歩みます。お前は川淵さんの手となり足となり、Jリーグ立ち上げに奔走して、本当に素晴らしいプロリーグを作ってくれました。俺は違う道で。その後、お前から二度、話を受けて、「朗、一緒に良いチームを作ろう、良いクラブを作ろう、愛されるクラブを作ろう」そういうお前の気持ちを汲んで、その2つの話に、一緒に良いチーム作りに努めました。ただ、最後は二度、「西野さん、ご苦労様でした」と。そんな時だけお前、西野さんって呼ぶのかよと思うほど、二度クビを切られました。まあ、たくさんあるようでない、二度もそういう経験をJリーグでさせてもらいました。
 ただ、その後に俺はまた違う土地、違うリーグで、また違うステージで仕事をすることができるようになる。振り返ると、俺のサッカー人生、お前に選手時代も、指導者時代も、全て導かれたような気がして。本当にお前に刺激を受け、影響を受け、導かれた。
 最後に一生懸命マッサージをして、さすりながら「もう1回ボールを蹴ろう、もう1回蹴りたいなぁ」、あれだけ近くにいたお前の黄金の左足を俺は手でさすって、「何とか一緒に蹴りたい」。その夢も叶わないけれど、そっちに行って少し楽になって、もう1度ボールを蹴って下さい。そして、お母さん、家族を強い力で見守ってあげて欲しい。
 本当にお前と会えて良かった。いろんな力をもらった。これからはお前はいないけど、サッカー界のために何とか力になりたいと思っている。お前も見守ってくれ。本当にありがとう、一正。


鈴木 健一郎 ㈱エスパルス代表取締役会長

 本日ここに株式会社エスパルス取締役副社長兼ゼネラルマネージャー久米一正様の告別式にあたり謹んでお別れの言葉を申し上げます。
 私が久米さんに最初にお会いしたのは、2017年12月1日清水エスパルスが残留争い真っ只中で迎える最終戦の前日でした。色々とお話しをさせて頂き、GMとしての高いご見識と、そして何よりもエスパルスへのいまだに熱くたぎる思いを強く感じ、その場でGMとしてエスパルスに来て欲しいとオファーをしました。私が会長として果たした最初の仕事でもあり、あの日に二人で交わした会話はとても思い出深く残っています。それから本当に色々なことを議論して久米さんと一緒に一つ一つの課題を解決していきました。
 今年の夏の補強も守備のテコ入れが必要ではないかとの意見が大半の中、久米さんは点が取れるフォワードを取るべきだとのお考えでした。久米さんがそうおっしゃるならそうしようと即座に決断して、他チームに先んじて動きドウグラス選手を獲得しました。ドウグラス選手は15試合で11得点を取りチームに大いに貢献してくれました。久米さんの慧眼を心から敬服しています。
 久米さんとは沢山の試合を一緒に観戦しました。久米さんと私が隣同士に座って観戦した試合は負け知らずで、いつしかその験担ぎが定番となりました。得点のたびに、勝利のたびに交わしたハイタッチ、もうできないことが寂しくてなりません。
 久米さんが亡くなられた翌日のヴィッセル神戸戦、私は奥様と共に、そして久米さんの遺影と共にいつものあの場所で試合を観戦しました。
 私はあまり結果にこだわるタイプではありませんが、この日ほど心の底から結果が欲しいと思った日はありません。久米さんに勝利を届けたい、そして久米さんとのこの験担ぎを続けたい、そのような思いで観戦しました。あの日は自分の立場も忘れ、我をも失い一心不乱で応援していました。
 苦しい試合展開となりましたが、アディショナルタイムにゴールキーパーの六反選手がヘディングで同点ゴールを決めてくれました。選手の皆さんは久米さんへの思いを込め本当に気持ちの入った試合をしてくれました。そして私達の負けない験担ぎは、まだこれからも続きます。あの同点ゴールの後は、私は体の震えが止まりませんでした。その瞬間いつものあの席に間違いなく久米さんがいた、そのように感じ、そして勝利の時の久米さんの笑顔を思い出しました。
 エスパルスの元々の土台を作って下さったのは久米さんです。そして月日が経って崩れてしまった土台を再建してくれたのも久米さんです。スタッフ、そして選手の皆さんはこの一年で大きく成長したと実感しています。シーズン終盤の戦いぶりは久米さんの目指していたサッカーに近づいていたと思います。本当に感謝しかありません。もう一度エスパルスに来てくれて、そして再建してくれてありがとうございました。
 もっと一緒に仕事がしたかった。クラブの成長をともに成し遂げたかった。それが叶わないのが残念でなりません。でも久米さんが再建してくれた土台と魂を込めて命を賭して最後の最後まで育ててくれた大榎さんをはじめとする人材がいるから心配はしていません。久米さんとともに掲げた目標である5年以内のJリーグ優勝、7年以内のACL優勝を絶対に達成します。そして日本一の誉れ高き名GM久米一正ここにありということをサッカー界、そして世間にもう一度轟かせます。
 だから今日は安らかにお眠りくださいとはいいません。その日まで一緒に戦いましょう。


兵働 昭弘選手

 久米さん。自分の現役生活を振り返った時、貴方無くして私のサッカー人生は語れません。 最初に会ったのは2004年の大学4年生の時、契約の話をしましたよね。その時に言われた言葉で、お前は俺と一緒で左利きで、左利きがチーム重要なんだ!と左利きへの熱い想いを語ってくれましたよね。そしてこれからのエスパルスを担ってほしいと言ってもらい、久米さんとの会話が不思議と心に熱く響きエスパルスへの入団を決意しました。今思えば運命だったのかもしれません。あのとき久米さんがエスパルスに導いてくれたからこそ、このような素晴らしいサッカー人生を送れたのだと今確信しています。素敵なチームに導いてくれて本当にありがとうございました。
 そして一年ほど前、久米さんがエスパルスに戻ることになり、私自身もエスパルスに復帰したいと考えていたところ、また久米さんがエスパルスに導いてくれましたよね。心の底から嬉しかったです。充実した一年を過ごし、幸せな形で引退することが出来ました。感謝の気持ちでいっぱいです。あなたに二度、清水と繋いでもらったからこそ充実した現役生活を送ることができました。
 久米さんと過ごした時間の中で印象に残っている事が二つあります。まず一つは、久米さんの言葉の力です。久米さんが「俺に任しとけ」と言ってくれた時は本当にその通りになり 良くなりました。チームが少し不安定な時にも、「このチームはこのままで大丈夫!必ず良くなる!」と言ってくれ、本当に良くなりましたね。久米さんの先を読む力、行動力、有言実行な所、本当に尊敬していました。私はそういう人間になりたいと思っています。
 二つ目はサッカーの勝負へのこだわりだけでなく、それ以前の人としてのあり方を教えて下さった事です。その教えがあったからこそ、今の自分があると思っています。
 これからもサッカーの話をしたかったです。あなたの元で勉強もしたかったです。ただ今まで教えてもらった事がたくさんあります。その教えを胸に、これから頑張っていきたいと思います。いつまでも見守っていて下さい。
 長い間お世話になりました。ゆっくり休んでください。本当にありがとうございました。



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