チームを支えるコーチングスタッフのロングインタビュー。今回は、今季よりヴィッセル神戸から加入した菅原智コーチ編。吉田孝行監督とは同い年で、「タカ」と呼ぶ仲だと言う。指導者としての信念や、現在の仕事ぶりにも生かされている現役時代に培った経験を深堀りした。
取材日:3月10日/取材・文=平柳麻衣
1996年のナビスコカップ決勝は僕も出場していた
――東京V(V川崎時代を含む)在籍歴が長いですが、エスパルスをどう見ていましたか。
「僕が若い頃ですけど、“強いエスパルス”という印象がずっとありましたね。特に日本平での試合は、とても難しく常に手強い相手でした。今クラブハウスに写真が飾られている1996年のナビスコカップ決勝は僕も出場していたんですよ。PK戦でエスパルスが勝ってタイトルを獲りましたけど、当時20歳の僕にとっては、本当に清水エスパルス=強いという印象で、今回こういうご縁をいただいて歴史あるクラブで仕事ができることはとても光栄です」
――1999年にはブラジルの名門サントスでプレーしています。どのような経緯でブラジルへ渡ったのですか。
「当時の自分を振り返ると、プロになって何となく試合に絡み始めたりして、浮ついていたんでしょうね。自分の甘さや実力不足で、21歳でヴェルディとの契約が満了になりました。もちろんサッカーは続けたい。当時エージェントをやっていた方に手を差し伸べていただきました。その人が、ヴェルディやエスパルスで監督経験のある(エメルソン)レオン監督に連絡をしてくれて、ブラジルに行くか?という話になったんですよ。今思えばJリーグでもレギュラーになれない選手がブラジルで通用するほど甘い世界なわけがないんですけど、その時は若さと勢いで乗っからせてもらって、日本から飛び立ちました。
サントスでは一応プロ契約という形で在籍させてもらったんですけど、行ってすぐのキャンプで周りの選手たちとのレベルの差を感じて、『えらいところに来てしまったな』とカルチャーショックを受けました。なのでトップチームの選手たちと対等に競争ができたかと言ったら、そうではなかったです。ただ、一緒に練習させてもらう機会はありましたし、2軍の試合があればプロを目指しているアマチュア選手たちと一緒に試合にするという感じでしたね。
ブラジルでは、サッカーで成果を残せたものはほぼないですけど、いろいろな人にお世話になって、住まなければ分からない国民性を知ったり、初めて国外から日本を見たり、今でも関係が続いているような友達がたくさんできたり、サッカー以外のところでいろいろなことを学べたなと思います」
――ブラジルでの経験は指導者になった今にも生かされていますか。
「そうですね。指導者になってからも所属するチームには常にブラジル人選手がいるので、もちろん通訳さんとはレベルが違うんですけど、コミュニケーションを取る時にはポルトガル語を使うようにしています。僕がブラジルに行った時は当然、通訳なんていませんでしたし、当時はスマホもない時代。使うとしたら辞書ですよね。辞書もほぼ使っていなかったんですけど、もう独学というか、誰かが日常会話で使っていた言葉を真似してみたり、テレビや歌で聞いた言葉を覚えたり、そんなことをしていたら何となく生活できるようになりました。若いからこそ本当に日々無我夢中だったし、懐かしい思い出ですね」
――ブラジルに渡ったことは、人生においても大事なルーツになっていますか。
「本当にそうですね。やっぱり厳しい世界なので、僕を受け入れてくれたレオン監督は半年でクビになったんですよ。で、次に監督として来たのが後に鹿島などでも監督になったパウロ アウトゥオリさんだったんですけど、目の前の危機にあるチームを立て直さなければいけないというミッションに向き合う中で、全く戦力にならない日本人がチームにいる。でも、アウトゥオリさんは一切差別しなかったんです。僕の実力が足りていないと分かっていても、グループワークに入れてくれたり、周りの選手と同じようにちゃんと向き合って接してくれたというのが今も僕の心の中に残っていて、感謝しています。
サントスとの契約が12月までで、11月頃にGMのような役職の人から『もう来年ここにいることはないから、家族の元へ早く帰りなさい』と人づてに言われたんですけど、『日本に帰ってもチームがないからここで練習させてほしい』とお願いして、当時のフィジカルコーチがすごく優しい方で、『時間外だったら練習できるから、俺と二人で良ければ一緒にやろう』と気遣ってくれて練習させてもらいました。でも結局、1週間後に今度はもう『クラブにも入るな』と言われてしまい、フィジカルコーチとお別れして日本に帰ってくることになりました」
――何とかしてサッカーを続けたいという野心がすごかったのですね。
「実力があればどこかのチームからオファーが来たんでしょうけど、自分には実力がなかったので、どうやってこの世界で生きていくかということに必死でしたね。僕がブラジルに飛び立つ直前に、ユースの時に指導を受けていた川勝良一さんが神戸の監督になることが決まって、一緒にやらないかと声を掛けてもらったんですけど、その時にはもうブラジルに行くことを決めていろいろな人に協力してもらっていたので一旦お断りして、1年後に今度は僕からお願いする形で神戸に拾っていただき、またJリーグでプレーできることになりました。結果的に35歳までプロを続けることができましたけど、一流選手にはなれなかったですし、華のあるようなサッカー人生ではありません」
――でも、35歳まで続けられたということは、監督などを惹きつける何かがあったのでは?
「それも含めてご縁というか、出会いに恵まれていたのかもしれないですね。正直僕はサッカーが上手いタイプではないし、ハードワークして、チームのために汗をかいて、相手からボールを奪うことぐらいしかできない選手でしたけど、そういうタイプの選手を必要としてくれるサッカーを志向しているチームと巡り会えた。毎年レギュラーで出続けられたわけではないですけど、人に恵まれたサッカー人生だったなと思います」
ベースの部分も日々アップデートしている
――スタッフ陣の中で菅原コーチはどんな役割を担っているのですか。
「トレーニングの内容は監督が決めるので、それをピッチの上で他のコーチングスタッフと一緒にサポートしていくこと。あとは相手チームの分析を・・・
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