静岡サッカー・ヒストリー
~王国への道~

CHAPTER4

第4章 自信を深めた子供たちの海外遠征

1975年清水FCの小中学生が夏休みに敢行した欧州遠征。全勝で終え大きな成果を得た
清水サッカー協会提供

1978年清水FCの中学生がブラジル遠征。プロ予備軍とも互角に戦い現地を驚かせた
清水サッカー協会提供

1950年代に清水市(現静岡市清水区)に誕生した全国初となる小学生チームは、その後市内でリーグ戦を展開するなど急激な広がりを見せ、その選抜チームであるオール(全)清水は日本一へと昇りつめていった。ただ、子供たちにサッカーを普及させ、強化に努めていた堀田哲爾は、さらなる高みを目指していた。

清水市の当初のライバルといえば、県内で先行する藤枝市だったが、広い視野で見れば当時日本の前に高い壁として立ちはだかっていたのは海外勢である。そこで1974年(昭和49年)には韓国遠征を敢行し、その後は欧州そしてブラジルへと行き先を世界に広げていった。そこで得た経験と自信を力に成長した選手たちが、やがてアジア制覇やワールドカップ出場を達成。王国静岡の力が、日本サッカーの活躍の舞台を世界へ広げたと言っても過言ではない。

全国優勝を逃すもオール清水に熱い視線

1970年代に入ると、サッカーの街・清水は子供たちの活躍とともに全国区で知名度を高めていった。中でも選抜チームとして戦っていたオール清水は、徐々に全国を席巻していく。そんな勢いの中で開催された1973年(昭和48年)第7回全国少年団大会に出場したオール清水は、大量得点と無失点で他を圧倒し、難なく決勝に進出した。頂点を争った茨城代表・古河サッカー少年団には0-1と大会初失点で敗れはしたものの、彼らの戦いぶりには周囲から熱い視線が注がれた。

というのも、『キック・アンド・ラッシュ』で前線に蹴り込んだボールを、体の大きな選手が奪って強引に攻め上がりゴールを狙う古河に対し、オール清水は高い技術でしっかりとボールをつないでゴールに向かう洗練されたサッカーを展開していたからだ。事実、決勝戦は無得点だったものの、巧みな技で23本のシュートを放ったオール清水。対する古河はわずかなチャンスから決勝点を奪い勝利したが、成熟度では清水が圧倒し大会では際立つ存在となっていた。

周囲を説得し実現した韓国遠征

評価が高いオール清水を率いていた堀田には、大会後に思わぬ声が掛かった。決勝の試合を視察観戦に訪れていた韓国サッカー界の重鎮から、「韓国に来て試合をしてみないか」と誘いを受けたのである。『日本サッカーを強化していくには、まず子供世代から国外のチームと試合をすることが必要』と思い描いていた堀田にとってはありがたい申し出だったが、簡単に快諾というわけにはいかなかった。

韓国からの誘いを清水に持ち帰り周囲に話すと、案の定猛反対されてしまったのだ。小学生のチームが海外に遠征することなど、県内ではもちろん前例がなかったこともあったが、その行き先が軍事政権下にあり戒厳令が敷かれている韓国とあれば、「何かあっては大変だ」と反対の声が上がるのはむしろ当然だった。いうまでもなく、歴史上のさまざまな背景もあり、個々には遠征の効果を理解する声はあっても、公式に認められることは難しかった。それでも堀田が繰り返し遠征をお願いすると、当時の清水市長が理解を示すなど話は一気に進展し、ようやく許可が下りた。

最終的には地元の理解があって受け入れられたが、それにも増して周囲を動かしたのは堀田の熱意だった。そこには、韓国遠征にこだわる理由があったからだ。当時の日本代表チームは、長く韓国に勝てない時代が続いていた。オリンピックやワールドカップのアジア予選では、「勝てば出場決定」という最後の場面でも常に壁となって立ちふさがったのが韓国だった。その高く厚い壁を越えるには、「子供の時代に勝った経験をすれば、将来の日韓の対決も大きく変わってくる」と長い目で見た強化が不可欠で、「現状ではどの程度やれるのかを確認しておきたい」という強い思いがあった。

しかし、役所の許可が下りてもまだ難題があった。韓国から誘いを受けたとはいえ、費用はこちら持ちだった。当時の為替レートで換算すると、航空運賃や宿泊費用は各家庭にとっても大きな出費である。それでなくても一部の父兄からは、「海外遠征に行く必要があるのか」と疑問の声も上がっていた。そこで当時オール清水の監督を務めていた地元小学校の教員でもあった綾部美知枝は何度か説明会を開き、経験の大切などを父兄に伝え、ここでも承諾を得ることができた。

肌で味わった国際経験

多くの難題をクリアし、ようやく実現した小学生サッカーチームの韓国遠征は、現地のサッカー関係者から最初に誘いを受けた翌年の1974年(昭和49年)3月、4泊5日の日程で実施された。

実は小学生の海外遠征は、全国的に見ればこれが初めてではなかった。この3年ほど前には、兵庫県のチームが台湾に遠征し、韓国遠征も実は前例があった。だが韓国遠征に限れば、オール清水は他の遠征に比べ驚きの好結果を残すことになる。遠征では8試合を戦い5勝3分と負けなしで、全13得点を挙げたが、なんと失点は0だったのだ。

格上だと思っていた韓国の子供たちを相手に好成績を残し、選手たちはもちろん引率した関係者も自信という財産を手にした。そして、それ以上に海外を味わうことができたことが貴重な経験となった。

例えば2万人以上を集めた大きなスタジアムでの試合は、強いオール清水に対して完全アウェイの中で戦った。加えて歴史的な事情もあり、試合会場から帰る際には選手や関係者が乗った車に投石などもあったという。移動する道路沿いにビルは少なく、日本とはまったく違う風景が見られ、まだまだ発展途上にあったことで食事の面でも日本とは大きく違っていた。自分たちがいかに恵まれた環境にあるのかを改めて知ることになり、貴重な体験が選手たちの記憶として残った。

海外遠征の経験を自信に世界へ

1974年(昭和49年)の韓国遠征を負けなしで終えたオール清水は、翌75年(昭和50年)7~8月には欧州遠征(イングランド、西ドイツ)を行った。韓国遠征は小学生だけだったが、今度はオール清水の中学生も加わった。この中学生たちは、前年に小学生として韓国遠征したメンバーが中心だった。遠征先を欧州としたのは、サッカー先進地域だったことはもちろんだが、堀田が73年に指導者育成のための海外研修(イングランド、オランダ、西ドイツ)に参加した際にできた太いパイプを活用したものだった。

狙いの一つは『現状で欧州クラブの子供たちを相手にどんな試合ができるのか』、そして『先進地域から多くのことを学ぶこと』だった。現地のクラブチームとの試合は苦戦も予想されたが、小学生も中学生もそれぞれ5戦して全勝。とくに小学生たちはすべての試合を快勝、大勝で終えた。現地は夏休みシーズンで、子供たちの多くがほとんど練習をしない時期だったことに加え、どのチームも方針として、小学生世代ではチーム練習よりも個人の能力、技術を高めることに時間を割いていた。日本との育成方針の違いが鮮明となった結果でもあった。

ただ、子供たちが自信を深めたことは事実だ。小学生の中心選手だった望月達也は、後に清水東高に進学し、同期の反町康治(清水東→慶応大→JSL全日空→横浜フリューゲルスなど)らとともに高校選手権で準優勝。高校選抜メンバーとして参加した欧州遠征では、後に日本代表監督で指揮を執ったハンス・オフト氏らから高い評価を受け、高校卒業ともに当時オランダ1部だったHFCハーレムに所属し、静岡から世界を目指す先駆者となった。

さらに3年後の78年には、清水FCの小中学生たちが世界のサッカー王国であるブラジル(サンパウロ)遠征を敢行する。当時日系二世選手としてJSLでプレーしていたセルジオ越後氏と堀田、そして地元清水市のバックアップによって実現したが、そこでの活躍もまた『静岡サッカー』の底力を披露することになった。現地ではなんとブラジル選手権決勝の前座試合として、10万人ほどの観衆の前で年齢が上のプロ予備軍たちと対戦。そして互角かそれ以上の力を見せつけ、現地に衝撃を与えたのだ。

70年代から始まった海外遠征は、その後も長く続いている。そこに参加した選手たちは、その後日本のトップレベルへと成長し、日の丸を背負った選手も多数輩出してきた。そして当時堀田が描いていた『日本にプロリーグを』『地元清水にプロクラブを』そして『日本代表のワールドカップ大会出場』『日本でのワールドカップ大会開催』といった多くの目標を実現した。その中心に、海外遠征を経験した選手たちがいたことは事実で、まさにサッカー王国静岡の土台を固める重要な役割を果たした。

選手だけでなく、指導者も養成

清水の小学生たちを全国の頂点に導いていった堀田は、指導者の養成にも力を入れた。それがまた、静岡をサッカー王国に導く要因の一つになった。始まりは1970年(昭和45年)のことである。

前年の1969年(昭和44年に)にFIFA(国際サッカー連盟)によるコーチング・スクールが開催されると、翌1970年(昭和45年)には日本サッカー協会の主催で公認指導者養成を目的とした、『第一期コーチング・スクール』が始まった。期間は7月25日からの1か月間で、全国から30名弱が参加した。そこに、県サッカー協会の推薦で参加したのが堀田だった。

そしてスクールに合格しライセンスを取得した者は、地元に戻って指導者を養成することが求められており、堀田は早速県内から希望者を集め、自身が勤務する清水市立入江小学校で実施した。期間は1年間で全50回。毎週月曜日午後7時から2時間で行われ、初めの1時間は体育館で実技、次の1時間は教室で講義という日程だった。

講義内容は、戦術的ものから栄養学、心理学など、選手として関わるあらゆる部分がテーマとなった。まだ専門書や指導書もほとんどなかった時代で、堀田が日本協会主催のコーチング・スクールで学んだ内容をわかりやく資料にまとめ、ときには世界のサッカーのプレーをまとめた映像なども駆使しながら受講者に伝えた。

受講者は50名弱で、その中には後に指揮官として高校を全国の頂点に導いた清水東の勝沢要、浜名の美和利幸、静岡学園の井田勝通、東海一の望月保次、そして紅一点で参加し後に小学生のオール清水(清水FC)の監督に就任する綾部美知枝ら、静岡をサッカー王国に導いていく錚々たるメンバーが顔を揃えていた。

他にも地元の小学校から高校のサッカー部顧問や地元企業のサッカー部監督まで、幅広い世代の指導者が集まった。1年間に50回も顔を合わせるため、横のつながりができることはもちろんだが、さまざまな情報を共有できた。「受講内容も知らないことが多かったので、その後の指導に役立ったことはもちろん、他の指導者と同志のような深いコミュニケーションで静岡サッカーの裾野を広げたことが大きかったと思う」と綾部は振り返る。

そして、その受講者たちが得たコーチングに必要な情報をさらに周囲につないでいくことで、質の高い指導が隅々まで浸透。指導者の養成と選手の強化という2本柱に同時に力を入れたことが、王国静岡の礎になった要因だと地元のサッカー関係者たちは胸を張る。

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