静岡サッカー・ヒストリー
~王国への道~

CHAPTER5

第5章 高校世代を国内敵無しに導いた国際交流

韓国の強豪・大倫高を招いた第2回日韓親善高校サッカー(1977年)は静岡選抜が優勝
静岡新聞社提供

1979年SBSカップに改名後初の大会では韓国・青丘高が圧倒的な強さで優勝(濃色)
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1970年代には、小学生から高校生までが日本の頂点へと到達した静岡サッカー。小学生ではオール清水(1977年から清水FC)が全国制覇を重ね、高校では王者の藤枝東に加え清水勢なども全国で好成績を残し、静岡の最強時代に突入していた。その結果、サッカー御三家(静岡、広島、埼玉)の勢力図は、静岡一強時代に変わりつつあった。

高校世代の一強時代をより鮮明にしたのが80年代だが、その成長を後押しした大きな要因が、1977年(昭和52年)にスタートした『日韓親善高校サッカー』である。地元の老舗TV局SBS静岡放送の開局記念で始まった毎年2回の韓国との交流戦は、県内の強豪校を交えた全国的にも珍しい定期開催の国際試合だった。3年目の79年(昭和54年)からは夏の交流戦を『SBSカップ国際ジュニアサッカー』としてさらに拡大。同世代の世界の有名クラブや国内の強豪高校チームを招いた国際大会へと広がりを見せた。その後も各国の同世代代表チームを招聘する国内最大の大会として発展を続け、静岡の高校サッカーをさらに底上げし、誰もが疑う余地のない『王国』の構築を後押しした。

パイオニア精神でやり遂げた地方局初の国際生中継

1977年地元静岡でもっとも古い民間放送局のSBS静岡放送は、開局25周年を迎えた。その記念事業の一つとして行われたのが、この年スタートした『日韓親善高校サッカー』だ。静岡県内の強豪と韓国の国内優勝高などが対戦する国際親善試合である。もともと韓国とは、この3年前の74年(昭和49年)に清水の小学生たちが遠征した深い縁もあった。そして親善試合の第1回目は、同年3月に韓国で開催された。

遠征には、当時静岡県サッカー協会の理事長だった堀田哲爾ら役員と県選抜の選手たち、テレビ局からは当時の社長を始め放送スタッフらが加わり総勢36人で出向いた。釜山、ソウル、大邱で3試合が行われ、強豪3高校と対戦した静岡選抜は1分2敗。当時のフル代表が常に日本の壁となって国際舞台への道を阻んできた韓国だが、高校世代でも強さを見せつけた。

強い韓国サッカーと、もう一つ県民が驚かされたのが、3試合とも現地から生中継されたことだった。まだ海外のスポーツ生中継など少ない時代である。当時は生放送中に何度も映像が乱れ途切れるトラブルが頻繁に起こっていたため、現地のスタッフや静岡で待機していた関係者も不安を抱えての放送だったという。だが地方局では全国初となる国際生中継は、現地の放送局の協力もあり、大きなトラブルがないまま3試合を終えることができた。

全国初の試みを成功に導いたのは、すでに王国へと昇りつめていた静岡サッカーに対する地元局の熱い思いと、他がやらないことを実現させたいというパイオニア精神だったと、当時を知る人たちは口を揃える。それは1950年代、60年代から地元静岡のサッカー指導者たちが、手探りで王国への道を歩み始めた姿と共通するものがあった。

高校世代が更なる強化へ

当時としては全国的にも珍しかった国際試合という響き、そして韓国から生中継された試合は、地元の高校生たちに大きなインパクトを与えた。遠征に参加した選手は後に「外国人選手との試合は初めてだったし、まして格上と思っていた韓国が相手だったので緊張したけど、大きな差は感じなかったので自信になった」と振り返る。下の世代の選手からは「テレビ放送を見て真剣勝負だったし、自分もあの舞台に立ちたいという思いが強くなった」という声が多く聞かれ、日韓親善試合は県内の高校世代の新たな目標となった。

この親善試合のスタートは、出場した県高校選抜の強化にも大きな役割を果たすことになる。1960年代まで単独の高校チームで出場していた国体少年サッカーは、70年(昭和45年)に都道府県選抜の対戦へと移行する。それまでは大会前に召集していた静岡県選抜だが、3月と8月の日韓親善試合に出場することになり、強化の機会が増えるという大きなメリットがあった。

日韓親善試合が始まって以降の静岡選抜の国体での成績を見ると、1977年から1997年(平成9年)までの21大会で優勝12回、準優勝4回、ベスト4が1回と、新たに台頭してきた長崎や千葉などを大きく引き離して断トツの結果を残している。結果的に、その要因の一つが国際交流戦にあったことは確かだ。

多くの日本代表を輩出し聖地化

多くの有名選手が巣立ったSBSカップ。1997年はFW高原を擁したU-18日本代表が優勝
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選抜チームを含む県内の高校と韓国の強豪校が対戦した『日韓親善高校サッカー』は、1979年(昭和54年)に『SBSカップ国際ジュニアサッカー』に名称変更し、世界のクラブチームやナショナルユースなどが参加する国際大会となった。早速1981年(昭和56年)には、日韓以外のチームとして初めてバイエルン・ミュンヘンユース(西ドイツ)が出場。後にJリーグの浦和でもプレーした、元西ドイツ代表MFミヒャエル・ルンメニゲ(兄は元西ドイツ代表FWカールハインツ・ルンメニゲ)を擁して優勝している。

有名クラブは他にも、レアル・マドリード(スペイン)、ユベントス(イタリア)、アヤックス、ユトレヒト(以上オランダ)、パリ・サンジェルマン(フランス)、サンパウロ、パルメイラス(以上ブラジル)などが参加。中でも静岡とのつながりが深いブラジル勢の参加が多く、1986年(昭和61年)から91年(平成3年)まで6年連続で同国チームが優勝を飾っている。

海外勢の出場はクラブチームだけにとどまらない。1991年大会(平成3年)に出場したソ連(一部が後にロシア)ナショナルユースを皮切りに、次々とユース代表が参戦を始めた。日本でワールドカップが開催された2002年(平成14年)からは、各国のナショナルユースが参加する国際大会となり、国内外での大会知名度をさらに上げることになった。

そんな国際舞台の『SBSカップ』を経験した地元静岡の選手たちの、その後の成長も見逃がせない。静岡県選抜や日本ユースとして、あるいは県内の強豪校の一員として、中には海外から参戦したクラブに在籍していた日本人選手もいたが、彼らがその後続々と日本代表入りを果たしている。

例を挙げると、70年代にはGKの森下申一や松永成立(以上静岡県選抜)、80年代には清水三羽烏の長谷川健太、大榎克己、堀井巧や武田修宏、中山雅史、名波浩、藤田俊哉、澤登正朗、伊東輝悦(以上静岡県選抜)、三浦知良(ブラジル、キンゼ・デ・ジャウー)、90年代には高原直泰(日本代表)らが、その後日本代表に名を連ねている。さらに2000年代には、大久保嘉人、長谷部誠、本田圭佑、内田篤人らが日本ユースや静岡県選抜で出場。そして2010年以降も日本ユースで出場した堂安律らが後にフル代表で日の丸を背負っている。

そんな将来性のある選手たちが集まる大会には、必然的に全国のメディアが注目し、全国区での大きな報道がまた大会の価値を上げた。夏の静岡はいつしかユース世代の聖地となり、有望な選手たちの存在や活躍が、また県内の同世代を刺激し底上げすることにもなった。

静岡最強時代の到来

1970年代からは国内一強時代を迎えた静岡(清商黄金期の小野。1996年高校総体優勝時)
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日韓親善高校サッカーがスタートした1977年(昭和52年)以降、先に紹介した静岡県高校選抜だけでなく、県内の高校チームもさらに存在感を高めていく。それは全国大会での成績を見れば明らかだ。まず高校選手権は、この前年までの55大会までに4回だった優勝(すべて藤枝東)が、以降95年(平成7年)までの18年間に6回優勝(清水商3回、清水東・東海一・静岡学園が各1回)に増え、準優勝も同3回と、国際大会が始まる以前まで優位に立っていた関東勢の壁を見事に打ち破った。

夏の高校総体(インターハイ)でも、77年(昭和52年)から96年(平成8年)までの19年間に7回優勝(清水商4回、清水東3回)は、もちろん都道府県別で最多を数える。さらに顕著だったのは、高校とクラブユースが日本一を決める『全日本ユース選手権』だ。スタートした1989年(昭和62年)から2000年(平成12年)までの12大会で静岡県勢は優勝9回(清水商6回、藤枝東2回、磐田ユース1回)、準優勝1回と、まったく他の追随を許さないパーフェクトな成績を残した。

1980年代に高校世代の静岡一強時代を迎え王国を築き上げた選手たちは、92年から公式戦が始まったJリーグに活躍の場を移し、やがて世界最高峰『ワールドカップ』の扉を開けることになる。

CHAPTER5