静岡サッカー・ヒストリー
~王国への道~

CHAPTER6

第6章 清水が町ぐるみで勝ち取ったJリーグ・オリジナル10

1991年2月14日。清水市民や静岡サッカー界が思い描いていた大きな夢が実現した。国内初のプロリーグである『Jリーグ』への初代参加クラブ、いわゆるオリジナル10が発表され、『清水FC(後の清水エスパルス)』が名を連ねたのである。Jリーグの前身である日本リーグ(JSL)に所属していない唯一のクラブとして注目を集めたが、それを呼び込むことができたのは、清水の街のサッカーに対する熱い思いや取り組み姿勢、そして日本サッカー界に長く貢献してきた王国静岡が勝ち取ったものだった。

世界へ踏み出した東京五輪 日の丸を背負った杉山隆一

日本サッカーが、長い歴史の中でようやく世界へと羽ばたき始めたのは、1964年(昭和39年)の東京オリンピックである。アジア予選を突破せずに、開催地枠での出場となった日本代表だが、意地を見せベスト8進出という快挙を成し遂げた。準々決勝では強国ハンガリーに0-4と完敗したが、出場16か国が4つのグループに分かれて戦った予選リーグでは、世界有数のサッカー大国アルゼンチンに3-2と勝利し、世界中を驚かせた。その試合でもゴールを決めた清水市(現静岡市清水区)出身のFW杉山隆一(清水東→明治大)が、地元の子供たちのあこがれの存在となったことは言うまでもない。

杉山は卓越したテクニックの持ち主で、自身のゴールはもちろん、アシストでも大きく貢献し、当時はまだ大学生でもあったが大黒柱として日本代表を背負っていた。大会後には、日本に敗れ予選で敗退したアルゼンチン関係者が、杉山を20万ドル(当時のレートで7200万円)の選手だと話し、その金額に日本中が大騒ぎとなった。アルゼンチンのクラブからオファーは届いたが、残念ながら本人に話が届く前に日本協会が断りを入れたとも言われている。そのオファーを受け、もしもアルゼンチンでプレーしていたら、日本サッカーも静岡サッカーもまた別の道を歩んでいただろう。

ただ、東京オリンピックでの日本代表の活躍は、その後の日本サッカーを大きく前進させる契機となった。この大会に臨む日本代表強化のため来日したドイツ人コーチ、デットマール・クラマー氏が大会を終え日本を去る際に、さらに強くするに『強いチーム同士が戦うリーグ戦の創設』を提案。その答えがオリンピック翌年の1965年(昭和40年)に始まったJSLの設立だった。

新リーグの参加チームは、日本代表選手を輩出していた企業に加え、強豪大学も候補にあがったが、最終的にオリジナル8には古河電工(現・ジェフユナイテッド千葉)、日立(現・柏レイソル)、三菱重工(現・浦和レッドダイヤモンズ)、豊田自動織機、名古屋相互銀行、ヤンマーディーゼル(現・セレッソ大阪)、東洋工業(現・サンフレッチェ広島)、八幡製鉄の8社に決まった。そこには多くの静岡県内出身選手が名を連ねていた。

日本リーグ設立が導いた銅メダル

JSL設立の効果はすぐに形となった。それまで厚い壁だった五輪アジア予選を突破し、1968年(昭和43年)メキシコ大会への出場を決めたのだ。続く本大会では順調に勝ち上がり、準決勝でハンガリーに0-5と大敗したものの、3位決定戦では杉山(三菱重工)とエースストライカーの釜本邦茂(ヤンマーディーゼル)のホットラインが活躍し、開催国のメキシコ代表を2-0で下し銅メダルを獲得。史上初の快挙に日本中が歓喜し、サッカー人気は急上昇した。

メダル獲得効果は絶大だった。五輪明けのJSLでは、杉山と釜本の直接対決となった三菱重工対ヤンマーディーゼル戦に約4万人が集結。その後20年以上破られないリーグ記録となった。しかし徐々にサッカー熱は冷め、JSL人気も低迷する。日本代表もワールドカップはもちろん、五輪でもアジアの壁を突破できず、長い冬の時代に突入した。

それでもJSLは徐々に組織を大きくし、70年代初頭には静岡県内からも本田技研やヤマハ発動機(現・ジュビロ磐田)が参戦し、同1部リーグまで昇格。2部まで昇格した日本軽金属(後に羽衣クラブ)、藤枝市役所、中央防犯(現・アビスパ福岡)も参戦し、地元出身の有力選手たちの受け皿となった。

長き低迷で必須となったプロリーグ

しかし国際舞台での活躍がないまま、長く低迷する日本サッカー界は変革の必要性があり、国内トップリーグであるJSLをテコ入れするために、1988年(昭和63年)3月に発足したのが『JSL活性化委員会』だ。活性化への具体的な方向性はプロ化だった。アマチュアのままでも強ければ、その流れを継続しても問題はなかったが、世界一の大舞台であるワールドカップには一度も出場できず、五輪も銅メダルを獲得した1968以降は本大会の舞台には立っていない。世界からの遅れを取り戻すためにも、プロ化は急務だったのだ。

88年当時のリーグはもちろんアマチュアクラブの集団だったが、新しい流れが生まれていた。1969年(昭和44年)にクラブを創設し東京都リーグからスタートした読売クラブ(現・東京ヴェルディ)である。83年(昭和58年)にはJSL・1部で初優勝し、以降も常に上位争いを演じる盟主的な存在に成長していた。企業のサッカー部だった他クラブとは大きく異なり、すでにサッカーをすることで報酬を得るプロ集団だった。JSLもすでに86年(昭和61年)から『スペシャル・ライセンス・プレーヤー』という実質的なプロ選手が認められており、次はリーグをプロ化するのが狙いだった。

そして90年(平成2年)8月には『プロリーグ検討委員会』がスタートし、さらに翌91年(平成3年)3月には『プロリーグ設立準備室』が立ち上がった。ともに組織のトップで辣腕を振るう日本代表監督経験者の川淵三郎氏が主動する形で順調に推移していったが、91年(平成3年)2月に発表されたオリジナル10となる参加クラブの発表までの経緯は、静岡県民にとって大きな出来事となった。

Jリーグ発足前にあった静岡ダービー

プロ化を決めた日本サッカー協会は、1990年(平成2年)6月までに希望するクラブを全国から募った。静岡県内には、この時点でJSL・1部のヤマハ発動機(磐田市、現ジュビロ磐田)、本田技研(浜松市)、トヨタ自動車(裾野市、その後拠点を愛知県に移した現・名古屋グランパス)の3クラブがあり、プロ化はその中から選出される可能性が高いと見られていた。さらに静岡県リーグ所属のPJMフューチャーズ(浜松市、後に佐賀県に拠点を移し、現・サガン鳥栖)と清水FC(当時清水市)も加わり、結局県内からは5団体が申請した。

その後、本田はプロ化を断念、トヨタは愛知県に拠点を移し、PJMは条件を満たせず、残ったのはヤマハ発動機と清水FCだった。地元では、両クラブの初代メンバー入りを臨んだが、Jリーグ側は地域性や人口バランスなどの条件も考慮し、静岡県からは1チームに決定した。となると実績や実力ではヤマハ発動機が市民クラブ色の濃い清水FCを圧倒していた。しかしサッカー文化の定着や地域との密接なつながり、そして市民クラブという位置づけがJリーグの理念と合致するという点では清水FCが優位に立ち、双方とも譲れない状況だった。

するとJリーグ初代の川淵三郎チェアマンから、2つのクラブが合同チームで参戦する案が出されたが、あまりにも成り立ちが違い県内での地域性がわかる者からすれば、無理難題であることは明らかだった。そして運命の1991年2月14日、最後まで難航した静岡県内のリーグ参戦クラブは『清水FC』で決着した。

Jリーグの主役は静岡出身選手たち

1950年代から強化してきた静岡サッカー。各カテゴリーに日本代表選手を大量排出し、王国としてリーダーシップを発揮してきたという自負もある。かつてプロのチームスポーツと言えば国内では野球が先行したが、地味な存在だったサッカーがそこに並び称されるまでに成長した。国内初のプロサッカーリーグ『Jリーグ』からは、元日本代表のカズこと三浦知良(当時ヴェルディ川崎)ら多くのスター選手が誕生し、その中心にいたのが静岡出身選手たちだった。

Jリーグがスタートした1993年当時、各クラブに所属する選手の都道府県別出身者数では断トツの1位だった静岡県。地元静岡が長い時間をかけ築き上げた王国の力が礎となり、日本サッカーは世界へと大きく飛躍した。

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