静岡サッカー・ヒストリー
~王国への道~

CHAPTER3

第3章 若き教師の挑戦

イギリスから伝来し、静岡県内では1910年代に師範学校で産声を上げたサッカーが、その後は彼らの赴任先となった高校へと引き継がれていった。そして王国を自負するまでに成長した過程で、もう一つの源流となったのが小学生への普及促進だった。1956年(昭和31年)、清水市内(現静岡市清水区)に小学校教師として赴任した男が、せせらぎ程度だったサッカーの流れを大河へと発展させていく。男の名は『堀田哲爾』である。

小学生世代から強化で日本サッカー界をけん引した静岡サッカーの父・堀田哲爾(右端)
清水サッカー協会提供清水サッカー協会提供

日本初の小学生チーム発足へ

堀田は1935年(昭和10年)静岡市(現葵区)生まれ。静岡高校から静岡大学教育学部に進学し、大好きなサッカーを在学中も継続していた。当時の教育学部は2年制と4年制に分かれ、増加する子供たちが通う小学校の慢性的な教員不足を補うため、入学から2年で教育現場に進むことも可能だった。2年制を選択していた堀田は20歳で卒業すると、小学校教師として清水市立江尻小学校に赴任する。

教師の仕事と並行して地元サッカークラブに所属していた堀田は、子供たちにもその楽しさを伝えようと、当時の学校長に「放課後の時間を使ってサッカーを教えたい」と嘆願する。狙いは『一緒に汗を流しながら、子供たちの声を聞くことから始めたい』というもので、熱意をくみ取った校長から許可が下りた。堀田が早速子供たちに声を掛けると、担任をしていた5年生だけでなく、6年生や女子も参戦した。これが日本初の小学生サッカーチームの誕生である。

しかし当時はまだ、サッカーが何かもよくわからないという子供たちが多かった。何しろ学校内には『ボールを蹴ってはいけない』というルールもあったほどで、サッカーをすることに対しては、子供たちだけでなく親たちの間でも賛否両論があった時代だ。それでも、活動を見た子供たちや父兄の間では、徐々にサッカーに対する認知や理解が高まっていった。

やがて子供たちは「練習だけでなく、試合をしてみたい」と希望する。勝敗を決めるスポーツである以上、その流れは必然だった。堀田は子供たちの要求に応える強みを持ち合わせていた。教育学部出身のため、先輩たちも地元の小学校に教師として赴任しており、それを頼って声を掛けていくことで、徐々に対戦相手が増えていった。

1967年(昭和43年)には、清水市内の14チームが2組に分かれ、長期間のリーグ戦が始まった。その1位同士が、町のお祭りに合わせた日程で優勝を決めるという流れだった。長期間のリーグ戦方式は、この2年前の1965年(昭和40年)に誕生した国内最高峰の『日本サッカーリーグ(JSL)』を参考にしたもので、「トーナメントでは、早々に負けたチームの試合数が少なくなる。そうなると勝敗にこだわるチームが増えてしまう」と、子供たちの成長を考えたリーグ戦のメリットを強調した。小学生レベルのリーグ戦の誕生は極めて珍しく、当時大きく報道されたことで全国でも知られる存在となった。

清水市内で子供たちのサッカーが盛り上がる中、1965年(昭和40年)には現在まで引き継がれているサッカー・スポーツ少年団が、県内で初めて清水市と藤枝市に誕生した。さらに1969年(昭和44年)には第1回静岡県少年サッカー大会も開催され、清水市や藤枝市での盛り上がりは徐々に全県に広がりを見せていた。この組織作りが、後に地元から多くの日本を代表する選手たちを輩出することにつながっていくのである。

競技人口を増やし、競技力を底上げ

1974年サッカーの王様ペレが来静。清水市営Gで開催されたサッカー教室のポスター

堀田が江尻小学校でサッカーチームを結成した狙いは、子供たちと触れ合うことが教育の第一歩だという考え方があったからだが、他にも長い目で見た大きな目的があった。それは、国際舞台で活躍できない日本代表の強化である。

1950年代あたりの国内での人気スポーツといえば、いうまでもなく一番は野球で、それに続くのが相撲だった。サッカーはマイナー中のマイナーで、それを反映してか日の丸を背負い戦っている日本代表の成績も芳しくなく、当時からアジアでは指折りの強さを誇っていた韓国を始め、香港やマレーシアあたりにも簡単には勝たせてもらえなかった。

サッカー好きな堀田にとっては、それが耐えられないことだった。日本代表を強化するためには、まず国内でサッカーの認知度を高め、競技人口を増やすこと。そこに競争が生まれ、競技力は底上げされる。長い目で見たその第一歩が、子供たちへの普及だった。その狙いは堀田たちの努力によって徐々に実を結ぶことになる。

子供たちへの普及を進める段階で、堀田は海外からの刺激も積極的に取り入れていた。中でもブラジル人選手らによるサッカー教室などには力を惜しまなかった。まず1972年には、当時ブラジル代表でサッカーの王様と呼ばれていたペレによる静岡でのサッカー教室だ。世界的なドリンクメーカーがスポンサーとなって実施したものだったが、静岡での開催は堀田にも地元関係者やサッカー少年たちにも強烈な刺激を与え、競技人口の増加にも貢献した。

さらに海外からの刺激を継続するために、元ブラジル名門コリンチャンスに所属経験があり、72年からJSLでもプレーしていた日系ブラジル人選手のセルジオ越後氏に協力をお願いした。セルジオ氏もまたサッカー熱が強い静岡がお気に入りで、76年以降は地元の子供たちの強化に大きく尽力することになった。

エスパルスの起源となる『清水FC』の誕生

1977年第1回全日本少年サッカー大会に優勝した清水FC(右上段・綾部美知枝監督)
清水サッカー協会提供

日本代表強化の第一歩として少年サッカーの普及に力を入れ始めた堀田にとって、その先にある大きな目標の一つがプロリーグの設立であり、地元清水でのプロクラブの誕生だった。そこにたどり着くにはまだ長い時間を要するが、後に誕生した『清水エスパルス』の起源となる『清水FC』が産声を上げた。

始まりは1968年(昭和43年)12月1日だった。地元初開催となったJSLの三菱重工対日本鋼管戦は、その年のメキシコ五輪で銅メダル獲得の立役者となった清水出身のMF杉山隆一(三菱重工)の凱旋試合となり、会場となった県営草薙球技場(現静岡市駿河区)は超満員に膨れ上がった。その前座試合を担当したのが、清水市小学生選抜対静岡市小学生選抜戦だった。

清水市選抜は、前年にスタートした市内リーグで活躍した選りすぐりのメンバーで構成されたチームで臨んだ。対する静岡市も、清水市の影響を受け翌年からリーグ戦をスタートさせることが決定しており、その参加チームから選ばれた精鋭たちだったが、結果は6-0で清水が圧勝。この選抜チームを『全清水(後に清水FC)』と呼び、その後の活躍が清水を日本一のサッカーどころへと導く大きな柱となった。そして最強軍団の清水FCをベースとして、堀田が熱望したプロサッカークラブ『清水エスパルス』が誕生したのである。

清水FCは1977年(昭和52年)から始まった『全日本少年サッカー大会』の記念すべき第1回大会に優勝すると、第10回大会までに6度頂点に立った。全国から目標とされるチームとなり、清水三羽烏と呼ばれた長谷川健太、大榎克己、堀池巧を始め、眞田雅則、平岡宏章、古賀琢磨、斉藤俊秀、伊東輝悦、西澤明訓、佐藤由紀彦、市川大祐ら、その後清水エスパルスでプレーしたレジェンドたちを輩出した。

聖地清水で全国大会開催へ

夏開催の全日本少年少女草サッカー大会。第3回(1989年)には高円宮殿下もご臨席(右・堀田)
清水サッカー協会提供

清水FCの活躍、地元清水出身の選手たちの日本代表やJSLでの活躍もあり、静岡県や清水市が日本一のサッカーどころとして徐々に認知されていった。トップクラブの選手と同様に、清水FCも全国の子供たちのあこがれの存在として注目を浴びるようになった。

その清水や藤枝を中心に成長してきた静岡県のサッカー界が、1982年(昭和57年)に快挙を達成する。小学生から実業団まで6つのカテゴリーで、県勢が全国優勝したのである。清水FC(全日本少年)、静岡市立観山中学(全国中学)、清水東高(全国高校選手権)、静岡県選抜(国体少年)、ヤマハ発動機(天皇杯)、清水第八スポーツクラブ(全日本女子選手権)だ。

サッカーどころを自認する静岡にとってはまさに追い風となったわけだが、さらに小学生世代の聖地としての立場を明確にする大きな大会が1987年(昭和62年)にスタートした。毎年夏休みに実施されている『全国少年少女草サッカー大会』だ。全国から256チームが参加し、引率のスタッフや父兄を合わせれば、町を訪れる総人数は6000人を数えた。

全国どこからでも参加が可能で、5日間の日程の中でリーグ戦と順位決定戦を行い、すべてのチームが最後まで多くの試合を戦うことができる大会方式だったが、堀田を中心とした組織は運営を成功させ、少年サッカーの聖地としての価値はさらに高まった。

町はおもてなし精神で宿を安価に設定するなど、遠方からでも参加しやすい環境を整えていった。翌88年(昭和63年)からは女子の部も加わり、町を挙げた一大イベントは、夏の風物詩としてサッカーの町に定着。王国への道をまた一歩前進させた。

CHAPTER3