静岡サッカー・ヒストリー
~王国への道~

CHAPTER2

第2章 王者藤枝東とライバルたちの台頭

静岡の高校が全国トップレベルの仲間入りを果たすのは、1950年代後半からだ。そして60年代に入るとさらに勢いを加速させるが、最大の要因は志太中時代から礎を築いてきた藤枝東高の躍進だった。静岡を広島、埼玉と並ぶ『サッカー御三家』まで押し上げ、1966年(昭和41年)には国民体育大会、高校総合体育大会そして全国高校選手権を制し、史上初の3冠を達成した。

そして1970年代、80年代には、また新たな流れが生まれる。県内の有力校が藤枝東のライバルとして台頭し始めたのだ。清水東、清水商(現・清水桜が丘)、東海大一(現・東海大静岡翔洋)の清水勢、藤枝市内からも藤枝北、西部地区からは浜名、そして静岡工、静岡学園、自動車工(現・静岡北)の静岡勢などが新勢力として名を連ねていた。その力は拮抗し、『全国で勝つよりも静岡を勝ち抜く方が難しい』と言われた戦国時代に突入した。王国静岡は『御三家から一強』の時代を迎えることになる。

藤枝東を全国有数に押し上げた名将長池監督


藤枝東を日本一へと加速させ、多くの日本代表選手を育てた長池実監督
静岡新聞社提供

1950年代から全国の強豪の仲間入りを果たした藤枝東だが、その強さをさらに加速させる要因となったのが、東京出身で国語の教師として1958年(昭和33年)に静岡高校から異動となった長池実監督である。全国的には、いわゆるキック・アンド・ラッシュが主流の時代に、『つなぐサッカー』をベースとするスタイルを貫き、全国初の高校三冠を達成。卒業生からは多くの日本代表を輩出し、全国から強豪校が練習試合で訪ねてくるチームへと成長していく。

すると長池は、FIFA(世界サッカー連盟)が1969年(昭和44年)にスタートさせ、その年に日本で開催された『第1回FIFAコーチングスクール・アジア』に参加。後に日本代表監督として指揮を執った石井義信(1986~)、加茂周(1994~)らとともに、日本人12人(アジア各国から42人)のうちの一人として受講した。スクールは一流コーチの育成が目的で、日本代表コーチとしてメキシコ五輪を銅メダルに導いたドイツ人のクラマー氏らを講師とし招き約3か月間で実施され、長池は他の受講者とともに合格。指導者として最高峰の『FIFAコーチライセンス』を取得した。

ここでの経験を、監督を務めていた藤枝東はもちろん、高校サッカー界や地元の小中学生たちにも伝え、静岡県のサッカー発展に大きく貢献した。その長池を慕う指導者は多く、60年代から帝京高(東京)の指揮を執り日本一へと成長させた小沼貞夫監督など、高校界を代表する指揮官たちの目標となった。

高校選手権を4回、高校総体と国体も各2回全国の頂点に立った藤枝東。その王者を目標に台頭してきたライバルたちが、競い合って全国制覇を果たすまでに成長した静岡サッカーの先駆者として、王国の礎を築いた功績は極めて大きい。

メキシコ五輪銅メダルの杉山がけん引した清水東


1958年富山国体に初出場で優勝した清水東イレブン。前年藤枝東に続く県勢2連覇達成
静岡新聞社提供

1950年代の藤枝東が、県内高校サッカー界に君臨していた時代。県内他地域からも、徐々にライバル高校が台頭してきた。まず世間を驚かせたのが1958年(昭和33年)のことだった。前年に地元静岡国体で全国初制覇を成し遂げた藤枝東を押しのけ、富山国体の出場権を獲得したのは、創部7年目(一時休部後に再び創部)の清水東だった。県予選の準決勝で藤枝東、決勝では静岡高を破って県を制すると、続く東海予選の決勝でも再び静岡高を倒し全国切符を手にした。全国大会では苦戦を強いられ、全5試合のうち3試合で延長に突入したが、粘り強い戦いぶりで強豪たちを打ち破り頂点に立った。

全国区では知名度が低い清水東の快進撃をけん引したのが、後に日本代表で活躍する地元出身の1年生FW杉山隆一だった。すでに中学時代から頭角を現していた杉山は、自身が得点することはもちろん、他の選手の得点も演出する司令塔的な役割も果たしていた。そして全国制覇すると、翌59年(昭和34年)には高校選抜で臨んだ第1回アジアユース大会(出場資格はU-20)に出場し、17歳の中心選手として第3位に貢献した。

結局アジアユースには3年連続で出場し、卓越した技術を持ち合わせたサッカー少年は日本の宝として育てられた。1964年(昭和39年)東京、68年(昭和43年)メキシコと五輪にも2大会連続で出場を果たし、日本初の銅メダル獲得という快挙達成の立役者となったのだ。

その杉山の成長を高校時代に後押ししたのが、地元清水の企業チームだった。1948年(昭和23年)に同好会レベルで創部した日本軽金属(日軽金)サッカー部である。後に、藤枝東高OBで東京文理大(現・筑波大)や日本代表でも活躍したDF松永信夫らが加入したことで力を付け、JSL(日本サッカーリーグ)2部まで躍進した。その地元の兄貴分が頻繁に試合相手を務め、松永を中心としたレベルの高い選手たちが高校生たちの手本となって成長を手助けしたのだ。

国体で全国制覇を果たした清水東は、1966年(昭和41年)に同高OBの勝沢要監督が就任すると、新たな飛躍の時代を迎える。72年(昭和47年)に初優勝した高校総体で4回、高校選手権でも82年(昭和57年)に全国の頂点に立つなど一時代を築いた。清水東三羽烏を始め、多くの日本代表選手やJリーグクラブ監督も輩出したが、2022年に就任したJリーグ第6代野々村芳和チェアマンもサッカー部OBの一人で、日本サッカー界において大きな役割を果たしている。

清水勢を躍進に導いた小学生強化


1986年度全国高校選手権に初出場し、大会無失点で初優勝した東海一
サッカーマガジン提供


1990年第2回全日本ユース大会で2連覇を達成した黄金期の清水商
サッカーマガジン提供

清水東の躍進ぶりは、他の高校にとって大きな刺激となった。中でも『キヨショー(清商)』ブランドが全国区となった清水商(現・清水桜が丘)の大躍進は80年代からだが、すでに71年(昭和46年)には高校選手権で全国ベスト4入りしている。同大会では85年(昭和60年)に初優勝し、2回頂点に立った。高校総体でも89年(平成元年)を皮切りに4回の全国優勝を誇り、藤田俊哉、名波浩、小野伸二ら多くの日本代表を輩出した。

さらに清水勢の第3勢力として躍進したのが、東海大一(現・東海大静岡翔洋)だ。新興勢力には選手が集まりにくい環境の中で、選手たちには清水東や清水商の選手たちに負けないテクニックを身につけさせたことに加え、全国的に珍しかったブラジル人留学生のアデミール・サントス(後に帰化し、三渡州アデミール)の加入などもあり、激戦地区の予選を突破して1986年(昭和61年)度の高校選手権に初出場。国見(長崎)との決勝では、高い個人技を持ち合わせたアデミールが得意とするバナナシュートFKを押し込み日本一に上り詰めた。翌年も同じカードで決勝を戦い敗れたものの、MF澤登正朗ら後の日本代表を輩出。後に後輩のDF服部年宏やMF伊東輝悦らも日の丸を背負い、偉大な先輩たちに続いた。

清水勢の躍進を支えた一つの要因は、60年代から全国に先駆けて始まった市内の小学生たちの強化だった。そこで全国を制した力が、自信となって中学、高校へと引き継がれていった。静岡サッカーの父堀田哲爾の尽力で底上げ、躍進した王国静岡の小学生の勢い(第4章)は、やがて世界最高峰の大会であるワールドカップへの出場そして地元開催へとつなぎ、大きな力となって世界との距離を縮めた。

次々と全国区に名乗りを上げたライバルたち

清水勢以外では静岡県西部をけん引した浜名も、1970年(昭和45年)と74年(昭和49年)に2回高校総体で全国の頂点に立った。藤枝東の地元からも、藤枝北が王者を倒して全国の舞台に立った。清水と隣り合う静岡地区(当時の静岡市)からは、76年(昭和51年)の高校選手権に初出場した静岡学園が、南米スタイルの個人技で相手を圧倒して勝ち上がり準優勝。その後も高い個人技を武器としたスタイルを貫き、同大会で2回優勝した。75年の高校選手権で全国準優勝した静岡工、70年代から県大会では常に上位常連で全国大会出場の経験もある自動車工(現・静岡北)などまさに群雄割拠で、当時は「静岡を制する者は全国を制す」「全国で勝つより静岡を勝ち抜く方が難しい」と言われるほど、群を抜く強さを誇る王国となっていた。

静岡の高校サッカーは、どこが勝つのか予想すらできない戦国時代が到来したわけだが、単独チームの強さはそのまま選抜チームの強さでもあった。当初は県予選で優勝したチームが出場していた国体は、1970年(昭和45年)の25回大会から各県選抜チームの出場に変更されたが、そうなると王国静岡に敵はいない。

1970年の25回大会から52回大会までの28大会で、なんと優勝17回、準優勝6回と圧倒的な強さを発揮した。その中で30回大会からは3連覇、さらに46回大会からも4連覇を達成するなど、まさに王国に相応しく、ライバル地域が存在しないほどの成績を残している。

各世代の日本代表に選出されていた地元出身選手も多く、その当時静岡以外の出身だった選手からは、「代表では静岡弁が標準語。合宿に行くと静岡弁を覚えて帰ってきた」という声も聞かれたほどで、かつて強さを誇っていた広島や埼玉に大きく水をあけたことを日本中が認めた。

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