静岡サッカー・ヒストリー
~王国への道~

CHAPTER1

第1章 サッカー伝来と静岡での発展

イギリス生まれのサッカーが日本に伝わったのは、1873年(明治6年)だと言われている。東京都(中央区)築地にあった海軍兵学校の寮に招いたイギリス軍の少佐らによって教えられたのが最初だった。まだサッカーという言葉で表現されていたわけではなく、『球を蹴る』という行為から、当時すでに人気を博していた野球などを例に『蹴球』と名付けられていた。

そして日本でサッカーが発展するために大きな役割を果たす『東京高等師範学校(1872年設立、後の東京教育大を経て現在は筑波大)』に、蹴球部が設立されたのが1902年(明治35年)のことである。高等師範とは、主として中学校(現高校)の教員を養成するための学校だが、後に全国的に中学進学者が増加したことで広島、金沢(石川県)、岡崎(愛知県)にも設立され4校体制となった。ここの卒業生たちが全国の中学校や師範学校(小学校の教員養成)などに教員として採用されたことで、サッカーは全国へと普及していった。

静岡師範学校に県内初の蹴球部創設

東京に伝来したサッカー(蹴球)が、その後全国へと普及していく中で、静岡県内でも同様に広がりを見せた。県内で初めてサッカーが認知されたのは、東京師範の卒業生が赴任した静岡師範学校(1875年設立、現・静岡大学教育学部)でのことである。授業に取り入れられたこともあり、生徒たちはその延長上でも活動を楽しみ、1919年(大正8年)には県内初のサッカー部が創設された。師範学校とは、主に小学校の教員を養成する学校である。

県サッカー協会の資料によれば、翌1920年(大正9年)には浜松師範学校(1914年設立、現・静岡大学教育学部)、さらに同年代には静岡高校(現・静岡大学)、浜松工業専門学校(現・静岡大学工学部)が揃ってサッカー部を創設。それぞれがライバル関係となることで熱い競争が展開され、王国静岡の礎がつくられていくことになる。

だが全国に目を移すと、関東や関西、そして高等師範があった広島などではいち早くサッカーが普及しており、1918年(大正7年)には、正月のサッカーで馴染みがある『全国高校サッカー選手権(当初は、日本フットボール優勝大会)』(第1回~第8回までは関西地区の学校のみが参加)も始まっている。静岡の学校にサッカー部が創設されるよりも前の話である。

当時の選手権大会には、中学校(現高校)と師範学校がともに出場可能で、年齢構成がやや上の師範学校が有利なこともあり、第7回大会までは御影師範(兵庫県)が連続優勝している。その後、サッカーが急速に普及し参加地域も広がる中で、御影師範だけではなく岐阜師範や埼玉師範なども頂点に立ったが、年齢的に不利だった中学校チームも徐々に優勝するだけの力を付けていく。目立ったところでは神戸一中(兵庫県、現・県立神戸高)、広島一中(現・県立国泰寺高)などが優勝チームに名を連ねるが、静岡は県代表チームの参加すらまだなかった。この大会で静岡県代表が頭角を現すのは1950年以降のことである。

校技に取り入れた志太中の台頭

全国的な活躍までにはやや時間を要した静岡県だが、徐々に裾野の広い発展を見せていく。師範学校に続き県内の中学校で最初にサッカー部が産声を上げたのは、1923年(大正12年)の静岡中(現・静岡高)である。翌24年(大正13年)には浜松一中(現・浜松北高)にも誕生した。

そんな中、また違った形でサッカーを教育に取り入れた学校があった。1924年に開校した県立志太中(現・藤枝東高)だ。初代校長の判断でサッカーを校技として取り入れ、入学と同時に全生徒に専用の靴を作らせた。当時本格的なサッカーシューズは輸入物に頼らざるを得なかったため高価過ぎて手が出せず、似たようなものを地元メーカーに安価で依頼していた。当時は『志太靴』とも呼ばれ、生徒たちは通学時にも使用していたという。各クラスにはサッカーボールも配られ、休み時間などで自由に使わせた。その後は生徒たちの希望もあり、クラス対抗のサッカー大会も開催され、校技として定着していった。

野球がもっとも人気がある時代に、なぜサッカーだったのか。しかも、当初は野球部すら作らせなかったという学校の方針には地元で反発の声も少なくなかったが、「他のスポーツに比べ運動量が豊富で、ボール一つあれば多くの生徒が参加できる」ことに加え、「男性的進取の気性や連帯共同性が養われ、また未発達競技の将来性への期待からサッカーを校技として推奨した」と校長は理由を語っている。

校長の名は錦織兵三郎。宮城県出身で、1907年(明治40年)東京高等師範の卒業生だ。開校と同時に若くして志太中に赴任したが、サッカーの指導者を他校から引き抜くなど、学校を上げて普及に力を入れた。開校から2年後の1926年(大正15年)にはサッカー部が創設され、大会参加など他校との試合を積極的に行い、徐々に力を付けていった。

県内では後発とあって、当初は師範学校や静岡中などには歯が立たなかったが、創部から間もない1931年(昭和6年)、全国へとその名を広めることになる。当時全国大会として知られ、30チームほどが参加して毎年8月に開催されていた、東京文理大(現・筑波大)主催の『全国中等学校蹴球大会』に初出場。関東の強豪たちを破って見事優勝すると、帰省した勇士たちを大勢の市民が駅で出迎え、選手は学校まで行進したという記述も残っている。

町の宝となったサッカー部は、翌年の同大会でも順調に勝ち上がり、2連覇こそ逃したが準優勝した。安定した力を披露し一気に全国へと名をとどろかせ、その後は全国制覇に至る静岡の船頭役として、王国静岡構築へと邁進していく。

広島、埼玉とともに御三家に成長させた藤枝東の快進撃

志太中の躍進ぶりを横目に、県内では先輩格の静岡中、浜松一中も負けてはいなかった。というよりも、1930年代まではむしろ同等か格上を維持していた。静岡中は元日本代表選手の下で指導を受け、その後高校や大学で活躍する選手を多数輩出。後に、県外の高校を日本一に導いた名指導者も誕生している。

浜松一中からは、卒業生3選手が1936年(昭和11年)ベルリン(ドイツ)五輪代表に選出された。優勝したイタリアには準々決勝で0-8と大敗したものの、大会初戦で強豪スウェーデンに3-2と辛勝し、『ベルリンの奇跡』として世界中を驚かせた。

その代表チームには、実は志太中OBも2選手、静岡中学OBも一人含まれており、全6選手が静岡県から選出され、出身県別ではすでに最多を誇っていた。スウェーデン戦でもその中の5選手が先発し、静岡の力で勝ち取った金星と言っても過言ではなかった。そんな先輩たちの活躍を自信に、静岡の中学は戦後高校に名前を変えた後、全国大会で快進撃を続けることになるが、その先兵が志太中から名前が変わった藤枝東高だった。

全国高校選手権に県勢で初出場を果たしたのは、中部地方代表となった1951年(昭和26年)第29回大会の静岡城内(現・静岡高)だったが、あっさり2回戦で敗退した。広島や埼玉の代表が頂点に立つ中で、全国優勝どころか中部代表や山神静(山梨・神奈川・静岡)の3県代表の切符すら手にできなかった。

藤枝東が高校選手権大会に初出場するのは、1955年(昭和30年)の第34回大会である。その後連続出場する中で、翌35回、38回、そして1960年(昭和35年)の39回大会にはベスト4まで進出したが、なかなか頂点には届かなかった。だが、その途中の1957年(昭和32年)には国体少年の部で県勢として初優勝。すると1962年(昭和37年)の第41回高校選手権でついに初優勝を飾った。そして高校総体(インターハイ)にサッカーが新種目として加わった1966年(昭和41年)には大会初代王者となり、その年の国体と高校選手権と3つの大会で頂点(史上初の3冠達成)に立った。

すると、戦前から強豪校を輩出してきた広島、埼玉と並び静岡を含む3県を『御三家』と称し、静岡は王国の一つに加えられた。そして1970年代から80年代にはその御三家から一歩抜け出し、一強の時代を迎えることになる。それは藤枝東を頂点に清水など他地域への勢力拡大による激しい競争と、小学生世代の強化(第3章)による選手層の底上げが大きな要因となった。

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