CLUB クラブ概要

エスパルス基本理念

「わかちあう夢と感動と誇り」
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    エスパルスは、スポーツを愛する人々に支えられる地域のシンボルとして、夢を創造しつづけます
  2. 2
    エスパルスは、サッカーを通じて多くの人々と感動をわかちあい、地域スポーツ文化の発展に寄与します
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    エスパルスは、正々堂々と情熱をもって戦い、地域の誇りとなる最強のチームを目指します
MISSION
市民が作り育て、地域の発展と
スポーツ文化の振興に貢献し
サッカーを愛する少年たちに夢を与える、
世界レベルのプロサッカーチーム
スローガン

もっと強く、もっと強かに。
勝利を掴み取るチームになる。

「ONE FAMILY」
俺たちは一人じゃない。
背中を押してくれる仲間が、
共に戦ってくれる仲間が、俺たちにはついている。

証明しなければならない。
ピッチの上で戦う姿勢を、勝利を掴み取るために強い意志を。

全ての想いを胸に、もう一度ここから這い上がる。

クラブエンブレム

エンブレム:SHIMIZU S-PULSE
このエンブレムはエスパルスが長く用いてきた富士山のモチーフを形状を磨き、富士山としての印象を強く出せるようにデザインされています。3本のブルーの縦縞についてはエスパルスの理念である「夢・感動・誇り」を意味します。S-PULSE DRIBBLEフォントをあしらったクラブ名は、大きくはっきり真っ直ぐに表示して、スポーツマンシップを表現しました。中心に配置される地球のシンボルについては、形状を磨き、大きく表示。クラブの活躍が世界に通じていることが表現されています。

MASCOT

KV:マスコット
サポーターに愛されるエスパルスのマスコットキャラクター「パルちゃん」、「ピカルちゃん」をご紹介します。

清水エスパルスの誕生

画像:清水エスパルスの誕生 画像:清水エスパルスの誕生 画像:清水エスパルスの誕生 画像:清水エスパルスの誕生 画像:清水エスパルスの誕生

日本一のサッカーどころに誕生した
“オリジナル10”唯一の市民クラブ

静岡市をホームタウンとする日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)の『清水エスパルス』は、日本サッカーリーグ(JSL)に前身を持たず、同市清水区(当時は清水市)に既存した社会人チーム『清水FC(清水クラブ)』をベースに誕生しました。

清水FCは、小学生世代で何度も全国制覇した『清水FC』の上部組織です。1984年に全国社会人サッカーで準優勝、1986年には東海リーグに昇格するなど、JSLの次のカテゴリーでも実績があり、Jリーグ参加10クラブ“オリジナル10”が発表された1991年当時は静岡県1部リーグに所属していました。

そもそもJSLがJリーグへと移行した主な要因は、日本サッカー界の低迷です。日本代表(当時は全日本とも呼ばれた)は1964年開催の東京・オリンピックでベスト8まで勝ち上がり、さらなる上位を目指すための強化策として、1965年に全8チームによる国内最高峰リーグとして『JSL』を発足しました。

JSL効果によって、1968年メキシコ・オリンピックでは、大会得点王に輝いたFW釜本邦茂やMF杉山隆一(清水東高出身)らの活躍で銅メダルを獲得しました。ところが、その後はオリンピックのアジア予選も突破できず、世界舞台に立てない低迷期が長く続きました。

その低迷から再上昇を目的として検討されたのが、プロリーグの創設です。1988年に開設したJSL活性化委員会がスタートとなり、徐々にプロリーグ誕生の機運を高めていくと、ついに1991年2月にプロリーグの最初の10クラブが発表され、『清水FC』がオリジナル10として加わることが決まりました。

最初の10クラブの内訳は、JSL1部から8、JSL2部から1、そして残る一つがJSLには所属していない清水FCでした。プロリーグに参加を希望するJSLクラブは多数あったものの、なぜカテゴリーが低い清水FCが選出されたのでしょうか。それは清水が街を上げてサッカーを盛り上げ、小中高の若年世代から全国屈指の力と組織を備え、地元からは多くの日本代表選手を輩出してきたことです。そして他クラブとは違い企業の母体がなく市民が支えているクラブの姿が、新しく立ち上がったJリーグの理念とも合致したからに他なりません。

《清水エスパルスの誕生から船出まで》
※プロリーグの検討~1993年まで

1988年3月 JSL内に「活性化委員会設置」。JSLのプロ化などを話し合う場として設けられ、以後5回の会議を実施。徐々にプロ化への機運が高まっていく。
7月 JSL内に「第二次活性化委員会設置」。その後、日本サッカー協会内にプロリーグ検討委員会が誕生。プロリーグ誕生へさらに加速する。
1989年6月 日本サッカー協会が「プロリーグ準備検討委員会」を設置。
この頃清水市は、第三次総合計画の中に「サッカーのまち」の展開を掲げ、「プロサッカーチームの結成」を盛り込む。
1990年3月 プロリーグ参加条件を決定。
6月 清水FCがプロリーグ参加を正式表明。県内からは他にヤマハ、ホンダ(ともにJSL1部)、PJM(静岡県1部、現鳥栖ヒューチャーズ)も。全国では全20団体がプロ化を表明。
8・9月 プロリーグ参加希望20団体に1回目のヒアリング。
12月 プロリーグ参加希望20団体に2回目のヒアリング。
プロリーグ参加希望20団体が14団体へ。県内ではホンダが参加を辞退。PJMは参加条件を満たせず。
同時期に、「300万人から500万人の地域に1チーム」という新たな基準が設定され、静岡県内には1チームが妥当とされる。
1991年2月 14日、プロサッカーリーグ参加10クラブ発表され、清水FCの参加が決定。
5月 クラブ運営会社「エスラップ・コミュニケーションズ」を設立。
チーム名が「清水エスパルス(S-PULSE)と発表される。
「S」は清水、静岡、サッカーの頭文字、「PULSE」は鼓動、躍動を意味する。
当初の資本金は8億円。株主は地元企業以外に、市民持ち株会に5%を割り当てる。しかし市民の応募が殺到したため、同11月には11億円、さらに93年4月には15億9500万円に増資。市民持ち株会が22%に増え、筆頭株主となる。
チームカラーは清水FC伝統のマリンブルーが有力視されたが、10クラブ中6クラブが青を希望したため、静岡の特産物である「みかん」などをイメージしたオレンジに決定。
運営会社を立ち上げると、JSLトヨタ自動車のエスピノーザヘッドコーチを監督に、JSL古河時代に2度の得点王を獲得した吉田弘氏(静岡工高出身)をヘッドコーチとして招聘。
その後契約第1号選手として清水東三羽烏の一人、MF大榎克己が加入。さらにFW長谷川健太もほぼ同時期に加入したが、ケガの治療やリハビリのため清水には戻れず、しばらくは大榎一人が所属し、9月には単身ブラジルへ留学。
7月 1日、プロリーグの正式名称を「日本プロサッカーリーグ」とし、愛称の「Jリーグ」も同時に発表された。
11月 1日、「社団法人日本プロサッカーリーグ」設立。川淵三郎氏が初代チェアマンに就任。
後に清水FCのホームスタジアムとなる日本平運動公園球技場(2013年~、アイスタ)のこけら落としとして、「ドリームマッチ・イン・清水」を開催。試合は『ブラジル・セレソン・マスターズ』vs『静岡選抜』。
静岡選抜で出場した真田雅則(JSL全日空)、三浦泰年、堀池巧(ともにJSL読売クラブ)、アデミール・サントス(JSLヤマハ)、澤登正朗(東海大)、平岡宏章(順天大)、岩科信秀(国士館大)が後に加入した。
1992年5月 12日、日本航空株式会社(JAL)との支援提携を発表。Jクラブ初のユニフォームスポンサーが誕生した。
当時空港もない静岡に誕生したプロクラブを支援した理由は、清水エスパルスがJSLを前身とする他クラブのような企業色がない市民クラブということに魅力を感じた同社宣伝部社員が社内で提案、説得して提携に至っている。
その後、江崎グリコ株式会社、株式会社ホーネンコーポレーションもユニフォームスポンサーとして契約に至り、国内初のプロサッカーリーグが開幕を迎えることになる。
事情で退任したエスピノーザ監督に代わり、ブラジル代表GKとして4度ワールドカップに出場し、約1年前に日本平運動公園球技場こけら落としイベント『ブラジル・セレソン・マスターズ』の監督として来日したエメルソン・レオン新監督が就任。
6月 強化目的の欧州遠征。さらに7月にはシンガポールにも遠征。
7月 4日、プレシーズンマッチとして、初の有料対外試合でガンバ大阪(元JSL松下電器)とアウェイの地長居競技場(大阪)で対戦。日本中のサッカーファン、関係者が注目した試合を2-0と快勝し、静岡サッカーの底力を見せつける。後に、エスパルスが対外デビューしたこの日をクラブの誕生日としている。
8月 ブラジルンの名門サントスを相手に、東京と静岡で強化試合。東京での1戦目は善戦しながらも0-3。そして地元静岡での2戦目は1-1のドローとし、翌月から始まる初の公式戦を前に選手は自信と手ごたえをつかむ。
9月 Jリーグ初の公式戦として、5日に第1回ナビスコカップが開幕。
9日、ホームの初の公式戦が開催され、横浜マリノスに逆転で2-1と勝利。スタンドを埋めた8032人の観衆とともに歓喜に包まれた。
同大会では優勝候補に挙がる一方、急造チームだから厳しいだろうと評価が二分したが、予選を2位で勝ち上がり、決勝ではヴェルディ川崎に0-1で敗れたが準優勝で終え、サッカーどころの底力を見せた。
1993年1月 5月からスタートする初のリーグ戦開幕を前に、強化のためマレーシア、シンガポールに遠征。戦績は3戦3分。
2月 強化目的でブラジルに遠征。現地の強豪クラブなどと6戦して1勝1分4敗。5月16日の開幕戦に向け、強化へのラストスパートに入った。

7月4日 誕生日

1992年7月4日は、Jリーグのオリジナル10(創設時の10クラブ)として参戦した清水エスパルスが、初めて有料対外試合を戦った日です。その記念すべき国内デビューを飾った一戦を、後に『エスパルスの誕生日』としています。

エスパルスが他の9クラブと大きく違うのは、それ以前に最高峰だった日本サッカーリーグ(JSL)に前身のクラブを持たないことです。Jリーグ参戦時にベースとなった社会人クラブの清水FCは、当時静岡県リーグ1部に所属しており、国内トップリーグを戦うためには一からのチームづくりが必要でした。

しかもJリーグへの参加が正式に決まったのは、初の有料対外試合の約1年半前のことです。「1965年にスタートし長い歴史を刻んできたJSLの他クラブと対等に戦うことができるチームなど、わずかな期間で構築できるはずがない」、それが世間のサッカーファン、関係者たちの一般的な見方でした。まして初の対外試合の相手はガンバ大阪です。前身がJSL1部の松下電器で、この試合の2年前には天皇杯で優勝。前年で終えた最後のJSLでも5位に入った強豪でした。

当初、実力ではあまり高い評価ではなかったエスパルスですが、全国的な注目度は極めて高かったことも事実です。理由の一つは、クラブ誕生の経緯です。それまでのサッカー界では母体の企業名がそのままチーム名となり、『企業チーム』という印象が強かったのですが、エスパルスはあまりなじみがなかった『市民クラブ』と呼ばれていました。当時戦った選手たちは「『市民クラブ』という響きに、好奇心があったようです。それとどこか存続が大丈夫なのかといった同情的な見られ方もしました。そのためか、全国から多くの応援をいただきました」と振り返っています。

注目されたもう一つのポイントは、知名度が高い選手の集まりだったことです。多くの選手が高校世代を中心に日本一を経験していましたから、サッカー界で有名な選手たちがいったいどんなプレーを見せてくれるのか、という期待の高さです。その反面、「やっぱり急造のチームなのだから、元JSLの強豪チームに勝てるとは思えない」という見方も入り交じり、チームとしての実力が未知数の部分にも興味があったようです。

ところが試合が始まると、目立ったのはオレンジ色のユニフォームに身を包んだスター選手たちの躍動でした。そして急造チームのはずが、強豪のガンバ大阪を相手に優位に試合を進め、主導権を握ったまま2-0で快勝。静岡サッカーの底力を改めて見せることができた瞬間でした。

当時の多くのメディアの戦前予想も、エスパルスには厳しいものが多かったようです。個々の選手たちのポテンシャルの高さや、将来的には強豪クラブに仲間入りする可能性を認めつつも、地元の清水・静岡から全国各地に散らばっていた選手を寄せ集めたチームだと、イメージ報道が先行していたのです。ところが当のエスパルスの選手たちは、まったく違ったイメージを持っていました。「小学生から日本一を経験した選手が多い自分たちが、簡単に負けるわけがありません。もちろん謙虚な気持ちはありましたが、自分たちの方が実力は上だと思って戦いました」と、揺るぎない自信で臨んでいたわけです。

ある選手は「あの頃のエスパルスは、確かにいろいろなクラブから来た選手ばかりの寄せ集めでしたし(笑)、まだ成熟度も低かったと思います。ですが、綺麗にパスをつないで攻め込む静岡サッカーはしっかりと踏襲していました。多くの選手は育った環境が同じですから、ピッチに立てば昔のイメージを共有して良い連携ができていました」と、単なる寄せ集めでなかったことを証明しました。

そして、この勝利でエスパルスはさらに加速しました。当時を知るOBの一人は「JSL時代の松下はつなぐサッカーを主としていたチームで、そこに勝てたことが大きな自信になりました」と、その後の戦いに弾みとなる大きな1勝だったわけです。その結果、厳しい視線を送っていたメディアも、この勝利でエスパルスの評価を上方修正しました。

そして国内デビュー戦から約2か月後に開幕したJリーグ最初の公式戦となった第1回ナビスコカップでは、JSL時代から日本サッカーをけん引してきたヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)には0-1で敗れたものの、サッカー王国清水・静岡の象徴となったオレンジ集団は準優勝で幕を閉じました。

躍進の起点となり、サッカーの街で育った選手たちに改めて自信を与えた記念となった初の有料対外試合。そこから始まったプロクラブ『エスパルス』にとって、まさに誕生日にふさわしい船出の一戦となりました。

会社概要

社 名 株式会社エスパルス
英文社名 S-PULSE CO.,LTD
代表取締役社長 山室 晋也
現社名営業開始年月日 1998年2月1日
(株式会社エスラップ・コミュニケーションズより営業権の譲渡を受け、清水エスパルスの運営を目的に新会社として営業を開始)
住 所

本社
〒424-0901
静岡県静岡市清水区三保2695-1

サッカースクール事務局
〒424-0037
静岡県静岡市清水区袖師町1492
(エスパルスドリームフィールド内)

事業内容 サッカーその他スポーツ競技の興行およびその仲介
サッカーその他のスポーツ選手の養成および指導の施設ならびにその団体の経営
前各号に関連するテレビ放送番組、雑誌、出版物、キャラクター商品の企画、制作ならびに販売
プロサッカー選手のマネージメント業務
広告事業
スポーツ施設の経営および受託運営ならびに管理
その他
関連施設 エスパルスドリームフィールド清水
エスパルスドリームフィールド静岡
エスパルスドリームフィールド駿東
エスパルスドリームフィールド藤枝
エスパルスドリームフィールド富士
S-PULSE STORE
エスパルス栄誉賞 清水エスパルス在籍中の活躍や貢献が著しかった選手・監督・スタッフに対して授与し、その功績を称える賞。原則として移籍・引退・退任等でクラブから離れる際に表彰する。

(1)表彰状、賞金、記念品
(2)年間ADカードの贈呈、年間駐車券の贈呈
(3)肖像写真の掲出

【選定方法】
下記の選定基準を満たす者の中から選考委員会(会長が指名した選考委員からなる)推薦に基づき決定

・選定基準
清水エスパルスとしての公式試合出場数が200試合以上。(国際Aマッチ、オールスターサッカー等含む)
その他、エスパルス在籍中に著しい活躍、貢献があったと認められる者。

《これまでの受賞者》
1999年 ステファン・ジョン・ペリマン氏、長谷川健太氏、堀池巧氏
2000年 カルロス・サントス氏
2002年 大榎克己氏
2004年 真田雅則氏
2005年 澤登正朗氏
2010年 伊東輝悦選手、市川大祐選手
2014年 齊藤俊秀氏