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【ヒストリア】松崎快「人と同じことをやっても勝てない…頭脳派アタッカーが身につけた駆け引きの術」

プロサッカー選手になるまでの道のりは人それぞれ。だからこそ各々がルーツに基づいた“サッカー観”を持っている。選手たちの過去を紐解き、現在のプレーヤー像が形づくられた背景に迫るコンテンツ『ヒストリア』。第3回は松崎快選手編。


10月16日公開/取材・文=平柳麻衣


練習に「行きたくない」と泣いたことも

4歳の頃、幼稚園でサッカーをやっていたので、自分も始めました。選抜にも選ばれていたからか、選抜のコーチがひまわりSCという少年団に誘ってくれて、渋々行きました。当時の僕は、少年団に入りたいとか、サッカーをやりたいという気持ちが全然なかったんです。


当初、ひまわりSCは大会で優勝できるぐらい強かったのですが、小3ぐらいの時に1FCというチームができて、6人ぐらい移ってしまったので、同学年は4人だけになってしまいました。俺は基本的に1学年上のチームでプレーしていて、左サイドからドリブルで仕掛けてひたすらクロスを上げるというスタイル。自分たちの学年になってからはボランチをやっていて、相手を剥がしてひたすら裏にスルーパスを出していました。


当時、同じ左利きという理由で中村俊輔選手に憧れていましたけど、プレースタイルはとくに真似していません。ドリブルに関してはマーカーを2つ並べて、八の字で土のグランドに跡が付くまでひたすら練習をしました。自分ではとくに意識した覚えはないけど、「当時からボールの持ち方が変わっていないね」と言われます。小学5年生の終わり頃からトレセンが始まって、結構トントン選ばれることができたので、「意外と自分やれるのかも」と感じたのが小5から小6にかけての頃です。


ちょうど同じぐらいの時期から週1で大宮アルディージャジュニアの練習に参加するようになりました。でも、本当に行きたくなかったんです。外部のチームから練習参加している形だったからなかなかチームに馴染めず、グラウンドの駐車場に着いても「行きたくない」と泣いて車から出ないこともありました。


でも、どこかのタイミングで一度ジュニアユースの練習に混ぜてもらった時にすごく楽しくて。やっぱり「レベルの高いところでやりたい」と思ったのと、俺は自前の練習着だったけどみんなが大宮の練習着を着ているのがカッコよく見えて、ジュニアユースへの加入が内定した時は嬉しかったですね。


初めての年代別代表招集。しかし…

大宮ジュニアユースの同期には、今ラトビアのチームにいる黒川淳史がいました。淳史のことは小1から知っているけどめちゃくちゃ上手いなと思っていて、大宮で最初に背番号が割り振られた時、淳史が10番で、俺は14番だったのが結構悔しくて。だけど、当時中3の監督だった中村順さんという、大宮のアカデミーにオランダの要素をいろいろ取り入れてくれた方がいて、14番はヨハン クライフの番号だと教えてもらって、良い番号なんじゃないかと思うようになりました。


同期18人ぐらいのうち、8〜9人は中2の時から上の学年に呼ばれていたんですけど、自分には全然そんな能力はなく、呼ばれることはありませんでした。もちろんすごく悔しかったけど、自分が上の学年に行っても通用しなさそうだなと感じていたので、挫折とは思っていなかったです。


ジュニアユースは4−1−4−1のシステムで、中2まではインサイドハーフをやっていて、サイドをやり始めたのは中3からです。なぜインサイドハーフをやっていたかというと、最初は「右サイドをやってみないか?」と言われたんですけど、それって真ん中ができないと思われているみたいじゃないですか。当時から天邪鬼だった俺はそう受け取ったので(笑)、「いや、真ん中をやります」と自分から言いました。


インサイドハーフをやり始めたばかりの頃は、後ろの選手が全然見えてなくて、ボールを持って振り向いたら目の前に相手がいて奪われるようなことばかりで、スタッフからは「その場で首だけ振ってろ」とよく言われていました。「どうやったら周りが見えるようになるんだろう?」と悩んだ記憶があります。結局どうやって解決したのかはあまり覚えてないけど、伊藤彰さんに「ダビド シルバを観ろ」と言われて、だんだん海外サッカーを見始めるようになったのが中学生ぐらいからだったと思います。


中3になって右サイドをやり始めましたけど、俺はレギュラーではなくて、誰かがケガをしている代わりに運良くスタートで出られているという状況が続いていました。ジュニアユースからユースに昇格できるかどうかも、一時期は保留にされていたぐらいです。ただ、心のどこかでは「アイツらより絶対俺のほうが上手い」とずっと思っていて、週2日あった休みの日もひたすらボールを蹴っていましたね。


中3では全国大会が2回あって、5月の大会はずっとベンチで、チームは準優勝しました。冬の高円宮杯も、普通にいったらベンチだったと思うんですけど、この時も前線にケガ人が出たことで全試合に出場することができて、決勝でのプレーが評価されたらしく、U-16日本代表に追加招集されました。でも、周りは常連の選手ばかりの中で俺は初招集で、ポルトガルやフランスの体格がガッシリした選手たちを相手に何もできず、早く帰りたいとずっと思っていました。


自分のストロングポイントをつくるために

ユースに上がって指導を受けた西脇徹也さんは、ボール1個分のパスのズレとか、どっちの足にパスを出すとか、ディテールの部分へのこだわりに厳しく、相手がここにいる時はこっちの足にパスを出せ、といったことをよく言われました。ユースでも良い選手はどんどん上の学年のチームに入れてもらえていたんですけど、俺はずっと自分の学年でやっていて、「ここから先、上に行くには何が必要なんだろう?」と考えた時に、自分にはストロングがないなと。中学まではウイングをやる時もドリブルをするよりは起点をつくることのほうが多かったので、高1の時はドリブルの練習をたくさんしました。練習中にたくさん仕掛けたり、自主練ではマーカーを遠くに置いてトップスピードを出しながらドリブルをしたり。


伊藤彰さんが監督になってからは、0トップやサイドバックを内側に入れたり、試合中に上手くいかなかったらシステムを変えたり、当時の高校年代としては先端なほうの戦い方をしていたと思います。例えば4−3−3で上手くいかなかったら後ろを3枚に変えたりして。でも、当時の俺はまだそういった駆け引きを楽しめるレベルではなくて、彰さんにめちゃくちゃ怒られてばかりでした。よく言われたのは「もっと背後にランニングしろ」でしたね。今となっては分かるんですけど、当時は自分の特徴を考えても足元で受けて剥がしたほうがいいじゃんと思ってしまって。そこは自分のひねくれているところがまた出てしまっていたなと思います(苦笑)


彰さんはバルセロナが好きなので、バルサの映像をたくさん観せられましたし、個人的にも海外サッカーをたくさん観るようになったのはこの頃からです。良くない例ですけど、古典の授業中に机の下でこっそり観ていたら先生にバレて、怒られてスマホを没収されてしまったこともありました(苦笑)。ただ、この頃はまだサッカーを勉強として観るというよりは、「観る楽しさを知る」という段階だったと思います。高校時代は寮生活で、スカパー!でチャンピオンズリーグを観ることができたので、朝4時半に起きて観たりしていました。


大宮の同期からは4人がトップチームに昇格して、悔しかったですけど、俺はキャンプに参加させてもらった時に「俺が今トップに上がってもやれないな」と感じるぐらい何もできなかったので、だったら大学経由でプロになって、先に上がった4人を抜いてやろうと思いながら過ごしていました。


今までで一番たくさん自主練をした大学1年の夏

大宮が東洋大と提携している関係もあって東洋大に進学したんですけど、これが大きなターニングポイントだったなと思っています。まず東洋大は部員数が少なく、よくある部活ならではの上下関係のしがらみみたいなものがなかったので、先輩たちとサッカーをするのが楽しかったです。


高卒でプロになれないと決まってからは、大卒でのプロ入りを目指すと切り替えていたので、リーグ開幕戦から試合に出たくて、自由参加が可能な高3の1月の練習初日から参加して、アピールを続けました。でも、「これだけできればいけるな」と思っていた矢先にケガをして2週間ぐらい休んでしまい、その間にAチームとBチームの振り分けが決まっていて、リーグ開幕の時はBチームでした。そこから1カ月ぐらいでAチームに上がれたんですけど、今度は肘を脱臼してまた離脱。復帰までに5週間ぐらいかかってしまい、復帰後もBチームでのプレーが続きました。


この期間はすごくつらかったですけど、サッカーをやめようとは思わなかったし、結果的に大学1年の夏休みが今までで一番たくさん自主練をしたと思います。他の部が使っていない限りグラウンドは自由に使えたので、11時からチームの練習をやって、終わってから1時間半〜2時間ぐらい自主練するというのを基本的に一人でずっとやっていて、ステップやドリブル、シュートなどいろいろ練習しました。


それでもずっとBチームのベンチという状況が続いていたんですけど、Aチームが関東大学リーグ1部への昇格争いをしていた10月頃、Aチームと同じ会場でBチームの練習試合があって、そこですごく良いパフォーマンスを出すことができたんです。それで次の週から「Aチームに入って」と言われて、登録が間に合わなくて翌節は出られなかったですけど、その次の試合で途中出場してリーグデビューして、逆転昇格が懸かった最終節も途中出場してチームはアディショナルタイムに決勝ゴールを決めて勝ち、1部昇格を決めました。決勝点に直接は絡んでいないですけど、Bチームのベンチから1カ月程度でAチームの昇格に携わることができたのはすごく嬉しかった思い出です。


自己流で身につけたサッカーの観方

東洋大では1学年上に坂元達裕くんがいて、ポジションも同じだし、タツくんが卒業するまで出られないのかなと思いました。でも、だからといって違うポジションで勝負しようとは思わず、「タツくんをどかせばいい」と思っていました。実際、最初にリーグ戦で使ってもらった時は4−4−2の俺が右サイドでタツくんが左サイドに回る形になりましたし、タツくんが器用なおかげですけど、翌年からは俺が右サイドでタツくんがFWに入る形が増えていきました。


大学3年生になったらタツくんと2トップを組むようにもなり、リーグ後半戦では4−2−3−1の俺がトップ下でタツくんが右サイドという形もやりました。このシーズンが一番楽しかったですね。タツくん以外にも上手い選手が多かったので、動いてほしい時にいてくれたり、出してほしい時にくれたり、本当にストレスなくサッカーができました。結果としても創部初のインカレ出場を果たすことができて、2回戦で負けて敗退が決まった時には、「もう4年生と一緒にサッカーができないんだ」とめっちゃ泣きました。


サッカーの観方が変わってきたのもこの頃で、これに関しては誰かに教えてもらったというよりも自己流です。相手がどういうシステムだとどこが空くのか、相手の出方を見ながらどういうやり方で対応するのかを探って、自分の試合でも相手をそういう視点で見るようになって。とくに気にしていたのは、駆け引きの部分ですね。ボード上だと相手がこうきたらこっちはこう、みたいに簡単に言えるけど、じゃあそのマグネットの個人能力はいくつなのか。相手選手の能力が100か50かでこっちの対応も変わってくるわけで、そこは常に意識して、ギリギリを探るようにしていました。試合の全体図は、映像を観ることで養われると思いますけど、駆け引きの部分はやっぱり試合での経験が大事だと思います。


自分が4年生になってからはなかなか勝てず、「自分が何とかしなきゃ」というプレッシャーやストレスも大きかったですし、結果的にチームは関東大学2部リーグに降格してしまい、個人としてもなかなかプロ入りが決まらず、苦しい時間でした。


でも、水戸がJ2のシーズン終了後にまだ練習をやっている期間があり、その時に翌年からの監督就任が決まっていた秋葉さんが来ていて、練習試合をやった2日後ぐらいにオファーをもらえました。その時は、プロになれる嬉しさよりも、ホッとしたという感情のほうが大きかったですね。と同時に、上手くてもタイミングやチーム、監督との相性などでプロになれない選手もたくさんいるんだなと感じました。


サッカーを“仕事”にしているからこそ

小さい頃からずっと、「人と同じことをやっても絶対に勝てない」と思っていたから、いろいろなことに取り組んでくることができました。それは今も同じで、昨季から今季にかけて、自主練として身体の可動域と柔軟性を高めるトレーニングを取り入れています。


大学3年生の時の楽しさを「100」としたら、今は「5」ぐらいですかね。苦しさ7割でサッカーをやっている気がします。でも、それはサッカーを“仕事”にしているからでもあって、やっぱり勝敗には責任が伴うし、俺だけの人生じゃない。


自分が高校生の時、大宮のトップチームが降格したんですよ。そうしたら翌年、プレミアリーグEASTで札幌へ行く時に前泊せず日帰りになって、トップチームのカテゴリや収益っていろいろなところに歪みが出るんだと実感しました。俺の実体験は大したことではないですけど、もし人員削減しなければいけなくなったらチームはもちろん、クラブ社員の方々もリストラとか、生活にも影響が出るかもしれない。そう考えると、背負っているものはすごく重いなと思います。


でも逆に、タイトルを獲ったり、良い成績を残せば街も含めて盛り上がるし、良い意味での経済的な影響が生まれます。とくに清水の街は、その影響を大きく受ける特色を持っていると思います。


サッカーは、たくさんの人の人生が乗った娯楽。そんなことを、ふとした時に思い返しながらプロとしてサッカーをやっています。


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究極を言えば、「支配率100%、5−0で勝つ」のが理想だという。ただ、それを追い求めながらも、プロとして6シーズン、リーグ戦150試合以上の経験を重ねるなかで、現実的に結果を残す方法も常に考え続けてきた。


「何のためにサッカーをやっているのか。その意義を見出すこと」。ピッチに立つ松崎の信念は揺るがない。


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